ダークナイト ライジング レビュー

 

 感想を一言で述べるなら、三部作のフィナーレにふさわしい力作だと言えるだろう。三部作の完結編ということで、過去2作で描かれたストーリーを発展させ、バットマンの旅の終わりを見事に描き出している。細かい欠点はいくつかあるが、そうした短所を補って余りある作品だと思う。

 クリストファー・ノーラン監督はコミック嫌いだと言われているらしいが、そんなことはあるまい(本当に“嫌い”なら、そもそもバットマンの監督など引き受けないだろう)。本作には、コミックからインスパイアされたと思われる場面もいくつか登場している。

 たとえば、引退したブルースが再びバットマンになるというのは『Dark Knight Returns』。
 映画の冒頭、杖をつくブルースは『Batman: Knightquest: the Search』。
 アルフレッドがブルースから去っていくのも、同じく『Batman: Knightquest: the Search』。
 ゴードンが重傷を負うのは『Batman: Officer Down
 ブルースとミランダが愛を交わすのは『Batman: Son of the Demon』。
 バットマンがベインに背骨を折られるのは『Batman: Knightfall』。
 ゴッサムシティが本土から切り離されるのは『Batman: No Man's Land』といった具合である。

 才能ある料理人が、今までのコミックのストーリーから“おいしい部分”だけを抽出して、そこにオリジナルの要素を追加して凝縮することで、旨いスープを作り上げたといった感じだろうか。劇中、リンゴを盗んだ少年をセリーナが助け、その報酬代わりとしてセリーナがリンゴを一口かじるという場面があるが、『Batman: No Man's Land』でもペンギンが同じような行為をしている。映画オリジナルの解釈とストーリーを押しつけるのではなく、コミックファンの心理にもきちんと配慮していることが窺える。

 

 もちろん不満がないわけではない。「○○と思わせて実は△△」という演出も、その一つ。サスペンスを維持するためには有効な手法だし、こうした「視点の転換」を利用することで、日常的な価値観の崩壊を表現したかったのかもしれないが、多用しすぎると先が読めてしまう。

 個人的に気になったのは、民衆の描き方である。前作『ダークナイト』でもそうだったのだが、映画のなかの民衆は典型的な“衆愚”として描かれている。『ダークナイト』では、ジョーカーが「誰かがリース弁護士を殺さなければ、市内のどこかの病院に仕掛けた爆弾を爆発させる」と脅迫し、それに踊らされた人々は“多数を守るため”という大義名分のもとに、罪のない市民であるリースを殺そうとしていた。今回の『ライジング』でも、人々はベインからハービー・デントの真実を知らされると、あっさりと手のひらを返し、ゴードンを非難するという日和見主義的な態度をとっていた。ここには、なぜゴードンがそのような苦渋の選択をしなければならなかったのかという、彼の心情や立場を考慮するという想像力=思いやりが欠落している。

 前作で生き残った(はずの)ラミレス刑事はトゥーフェイスの真実を知っていたはずだし、リース弁護士もバットマンの正体を知っているはず。また、『ダークナイト』の終盤では、不敵な面構えの囚人(小説版ではギンティという名前が与えられていた)が船の起爆スイッチを投げ捨てるという印象的な場面があったが、もし彼が『ライジング』の時点でもブラックゲート刑務所に収監されていたら、ベインの配下になっていただろうか? 『ダークナイト』の後、彼らがどうなったのかは不明だが、彼らの視点を導入すれば、愚かな一般市民だけでなく、理性的な市民の姿も描くことができたのではないか。あえて大衆を愚かに描くことで、相対的にバットマン/ゴードン/ブレイクたちの英雄性を際立たせることを狙った演出なのかもしれないが、あまりにも大衆をバカにしすぎではないかとも感じた。

 映画の終盤、市庁舎前で警官隊とベイン軍が激突する場面も、既存のシステム(法と秩序)を回復しようとする警官隊と、新世界のシステム(弱肉強食と恐怖支配)によって手に入れたものを守ろうとするベイン軍の対決にすぎない。既得権利を巡って争っているだけであり、本当の意味での階級闘争とは異なるものである。

 

 ベインは「希望を与えてからゴッサムを破滅させる」と告げているが、ベインが与えた新世界の希望は、『ウォッチメン』や『ダークナイト』で与えられた希望と同じもの、すなわち偽りの希望であり、いつか必ず崩壊する運命を背負っている。希望とは、ロウソクの灯のようなものである。何もしなければいつか必ず消え去り、絶望という暗闇に飲み込まれる。希望を維持するためには、常に火が燃えているように定期的に手入れをする必要がある。つまり、努力し続ける必要がある。その一方で、絶望するのは非常に簡単である。横山光輝の『マーズ』の主人公は、人類の救世主になれるほどのパワーを持っていながらも、人々の醜い側面を見て絶望し、あっさりと人類を破滅させる道を選んでいる。

 だが、バットマンはそうした楽な道を選ばない。人々は救う価値があり、ゴッサムシティは守るべき価値があると考えている。それは彼の絶対的な信念である。それを如実に証明しているのが、セリーナとの場面である。ゴッサムが隔離された後、セリーナと再会したブルースは、彼女に協力を求める。かつて自分を裏切った女性に対して全幅の信頼を寄せるなど、お人好しにも程があるが、ブルース自身はその判断を決して“弱さ”とは見ていない。コミックにおけるバットマンは、どちらかと言えば性悪説の立場なのだが、『ライジング』におけるバットマンは人を信頼すること、すなわち絆の大切さを十分に理解しているようだ。自分の後継者としてジョン・ブレイクを選んだことも、その証左であろう。『ライジング』では、ゴードンの妻は“子供たち(複数形)をつれてクリーブランドに引っ越した”と説明されていたが、もしゴードンの息子のジミーがゴッサムシティに残っていたら、ジミーがロビンになるという展開もありえたかもしれない。

 

 ユダヤ教には「36人の義人伝説」というのがあるそうだ。それによると、どの時代にも“義人=真に正しき者”(ツァディキーム)が36人いるとされている。彼らは並外れた善行をおこなっているのだが、それらを公言することはなく、名声や栄光を求めたりすることはない。むしろ己の本質を仮面の後ろに押し隠し、あえて不愉快な人間を演じる場合もあるという。そして、彼ら36人の正しき者がいるあいだは、彼らが世界を支えているので、世界は安泰なのだという(『ラスト・グッドマン』『アトラスの使徒』は、この「36人の義人伝説」をテーマにしたサスペンス小説である)。

 この義人たちは聖人君子として賞賛されることはない。あくまでも普通の人であり、時には普通以下の場合を装っている場合もある。しかし、それでも彼らの存在が世界を支えているのだ。映画のラストでバットマンはゴードン本部長に告げる。「誰でもヒーローになれる。少年の肩にコートをかけるという思いやりを示すことで、世界が終わったわけじゃないと教えてくれた人もまたヒーローだ」と。ここでいうヒーローとは特殊な存在ではなく、義人と同義である。

 僕は以前、『Amazing Fantasy』のレビューで、次のように書いたことがある(全文はこちら)。

 親愛なる隣人スパイダーマンが多くの人に愛され、これほどまでに人気を保っている理由。それは「スパイディがぼくらと同じスタンスに立っている身近な存在だから」だと言う。しかし、人気の秘密はそれだけではないと思う。我々がスパイダーマンに共感をおぼえるのは、「ぼくらもまた(超能力のあるなしにかかわらず)ヒーローになれることを示してくれたから」ではないかと思う。超能力を持っているから、ヒーローになるんじゃない。自分に与えられた責任を果たすこと、誇りをもってそれを成し遂げること、たとえ失敗してもあきらめずに努力し続けること。それがヒーローである、ということを教えてくれたからなのだ。

 僕自身、貧乏暇なしのピーター・パーカーと、大富豪であるブルース・ウェインとの間には、それほど共通点はないと思っていたのだが、一つ大きな共通点を見逃していた。それは「助けを必要としている人に対しては、自分自身を犠牲にしてでも手を差し伸べる」ということである。これこそ、あらゆるヒーロー、いや義人が持つべき資質であろう。そして、義人が彼らの行動を通じて教えてくれるもう一つのメッセージは、「長い人生において、人は間違い、傷つき、負けることもある。しかし大切なのは、そこから立ち上がることだ」ということである。

 『ライジング』においてノーラン監督が伝えたいメッセージもこれと同じものだろう。「我々は誰でもヒーロー=義人になれる。時に傷つき、倒されたとしても、再び立ち上がればいい。我々にはそれだけの強さが備わっているのだから」というシンプルなまでの人間賛歌である。闇の騎士の物語に、これほどまでにストレートで前向きなメッセージをこめるのは意外かもしれないが、闇を描くことで光を描くという逆説的な手法だと考えれば納得がいくだろう。

 精神科医の香山リカ氏によると、現代は実社会にしろネット社会にしろ「正しすぎる世界」であるらしい。たしかに他人の揚げ足取りをしていれば、一時的な快楽と正義感が簡単に手に入るだろう。しかし、それは義人の行為とは程遠いものである。誰もが義人になれるわけではないが、卑小な存在である我々自身もまた、世界を支える義人になりうる可能性を秘めているのだということは、忘れてはなるまい。

 

 映画のラストでは、アルフレッドがブルースとセリーナの姿を目撃するという場面がある。これが現実なのかアルフレッドの願望なのかは人によって意見が分かれるだろうが、僕自身は現実だと考えている。たとえ「クリーン・スレート」を使ったとしても、ブルースのような有名人がいつまでも隠遁できるはずもないだろうし、探偵と泥棒のカップルが長続きするとも思えない。けれど、彼らはゴッサムを救った義人であり、セカンド・チャンスを与えられる資格は充分にあるだろう。バットマンの旅は終わったかもしれないが、ブルースの旅は今から始まるのだ。二人が幸福な人生を過ごすことを祈りたい。

 名作と呼ばれるものの多くがそうであるように、『ライジング』もまた多面的・重層的な解釈が可能な作品である。今後、多くの人が『ライジング』をそれぞれの言葉で語ることだろう。そして、それこそが観客である我々に課せられた使命なのかもしれない。伝説を語り継ぎ、歴史を紡いでいくこと……それが、希望という灯、平和という灯を守り続けるということなのだろう。

 素晴らしい物語を与えてくれたクリストファー・ノーラン監督、そして数多くのキャストとスタッフに心から感謝したい。

   伝説が終わり、歴史がはじまる。
   《田中芳樹『銀河英雄伝説』》

   あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。
   それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね。
   《藤子・F・不二雄 『ドラえもん』 「のび太の結婚前夜」》

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