ダークナイト レビュー

【総評】

 一言で言うならば、完成度の高い映画であり、打ちのめされるような衝撃力を持った傑作である。もちろん暗いし重いし、観終わった後で爽快感を感じるどころか逆に疲労感をおぼえるような作品なのだが、それでも「良い映画だった」と言わしめるパワーを秘めている。2時間半という長さにもかかわらず、冒頭からクライマックスまで一気に見せる監督の手腕は見事である。たたみかけるような事件の連続、異なる場所の出来事を交互に見せるカット構成、「○○と思わせておいて実は△△」的なミスディレクションといった演出の全てが計算されつくしたものであり、そのプロの技にはただただ脱帽である。

 「アメコミ映画だと思っていると肩透かしをくらう」とか「このテーマを扱うのなら別のジャンルでもできたはず」といった意見もあるが、ちょっと的外れだろう。黒澤明監督の作品が時代劇という枠組みを使って人間そのものを描いていたように、『ダークナイト』もバットマンという枠組みを使って人間を描こうとした作品というだけの話である。

 『ダークナイト』は『スーパーマン』(1978)『バットマン』(1989)『スパイダーマン』(2002)と同様に、一つのスタンダードを確立させたインスタント・クラシックであり、今後作られるであろう同ジャンルの作品にとって試金石となることは間違いない。

 

【ブルースの正義】

   一つの悪徳を行使しなくては、政権の存亡にかかわる容易ならざるばあいには、悪徳の評判を受けることを恐れてはならない。
   《マキャヴェリ君主論』第15章》

 バットマン(ブルース・ウェイン)にとって正義とは何だろう? バットマンが悪と戦う理由は、この世界にはびこる不正をなくし、平和な社会を築くためである。その最終目標そのものは立派であり非のうちどころはない。では、それを達成するための手段はどうだろうか?

 バットマンが数多くの違法行為に手を染めていることは明らかである。暴行、過剰防衛、武器の携帯、改造車両の無許可運転、住居不法侵入、器物破損、不法な尋問など、数え上げればきりがないだろう。映画『ダークナイト』の冒頭では、バットマンはスケアクロウの部下を拘束するだけでなく、善意のビジランテ活動をおこなっていた偽バットマンも同時に拘束している。バットマンも偽者もビジランテであることに変わりはないのだが、バットマンは一段高い場所から彼らの存在を断罪している。もちろん「犯罪と戦うのは命がけの危険な行為であり、経験の浅い素人が手を出すべきではない」という教訓を与える意味もあっただろう。しかし、この時のバットマンの態度には、犯罪と戦うのは自分に課せられた使命であり、同種の人間の存在はむしろ邪魔であるという縄張り意識のようなものがかいま見れる。少なくともこの時点においては、相棒(サイドキック)という概念はまったく念頭にないようだ。

 映画の序盤では、香港に逃亡したラウをアメリカに連れ戻しているが、これは不法入国および拉致以外の何物でもない。ここで使われた水上飛行機に乗っていたクルーは、韓国人の密輸業者という設定であり、それを手配したのはブルースの執事のアルフレッドである。

 また、映画の中盤では、ブルースがウェイン産業の資金を流用してバットマンの装備を開発していることが語られる。これは業務上横領と粉飾決算である。しかも、このことはウェイン産業の社長であるルーシャス・フォックスも関わっている。ブルースやルーシャスにとっては、より大きな正義を実現するためなら、小さな不正をおこなうことは許されると考えていることがわかる。

 しかし、そんなルーシャスの心のなかにも、罪悪感を感じる最後の一線は残っていたらしい。映画の終盤、ブルースは携帯電話から発信される高周波を利用して、建物の構造や人物の位置を特定する特殊なソナー装置を開発し、それを使ってジョーカーが潜伏している場所を見つけ出そうとする。しかしそれはゴッサムシティに住む一般市民(3000万人)の会話を盗聴するということでもある。ルーシャスは「これはプライバシーの侵害であり、やりすぎだ」と反発するが、ブルースに説得されて今回限りという条件つきで協力することになる。平気で業務上横領をおこなっていた人間が、プライバシーの侵害ぐらいでここまで嫌悪感を示すのもどうかと思うが、ルーシャスにとっては個人のプライバシーは「絶対に守らなければならないモラル」だったのだろう。

 では、コミックの世界ではどうだろうか? こちらも映画と同じく違法行為に満ちあふれているが、ここではモラル的な側面から見た問題行動のいくつかを紹介してみよう。

 『JLA: Tower of Babel』…ラーズ・アル・グールの娘タリアバットケイブのコンピュータから一つのファイルを盗み出す。その直後、スーパーマンやワンダーウーマンをはじめとするジャスティス・リーグ・オブ・アメリカ(JLA)のメンバーが次々と襲撃を受けて倒されていく。しかも、その攻撃方法は彼らの肉体的・心理的弱点を的確についたものだった。実はその攻撃方法はバットマン自身が考案したものだった。バットマンはヒーローが敵にまわった場合を想定して、その対処法を考え出していたのだ。その後、回復したJLAはラーズ・アル・グールの人類絶滅計画を阻止するのだが、仲間であるバットマンが自分たちを倒す方法を考えていたという事実にショックを受ける。JLAはバットマンがメンバーとしてふさわしいかどうか協議するが、バットマンは自らの意思で脱退していく(その後、復帰する)。

 『OMAC Project』…ヒーローの行為を信じきれないバットマンは、彼らの行動を監視するために人工知能を搭載した衛星「ブラザー・ワン」を開発する。しかし、ブラザー・ワンは敵にのっとられた挙げ句、人工知能が暴走し、地球上の全てのスーパーヒューマンを全滅させようとする。

 『Superman/Batman: the Search for Kryptonite』…スーパーマンとバットマンはスーパーマンの弱点であるクリプトナイトを地球上から一掃しようと考える。二人は敵や政府からの抵抗にあいながらも、さまざまな困難を乗り越え、遂に地球上のクリプトナイトを全て破棄することに成功する。しかし、スーパーマンは知らなかったが、バットケイブのなかには万が一の場合に備えて必要十分な量のクリプトナイトが保管されていた。

 『Batman: Absolution』…10年前、ウェイン産業に爆破テロをしかけた犯人ジェニファー・ブレイクがインドにいることを突き止めたバットマンは現地へと向かう。しかし、現在のジェニファーは過去の罪を悔い改め、タージマハルの寺院で敬虔な信者として暮らしていた。ジェニファーは過去の罪を反省していると語るが、バットマンは「悪人が真に更生することはなく、犯した罪が赦されることもない」と冷たく告げる。

 …こうしたエピソードからわかるのは、バットマンが基本的に他人を信用していない人間だということである。コミックの登場人物は「バットマンは偏執狂(パラノイア)だ」とよく言うのだが、このことはバットマン自身も十分に自覚している。また、バットマンは悪と戦う際に“毒をもって毒を制する”方法を用いており、相手に心理的な恐怖を与えることが自らのモチーフになっているのだが、その点を悪用されることも多い。それはたとえば次のようなエピソードによっても示されている。

 『Wonder Woman: Paradise Lost』…デイモス(恐怖[terror]の神)、フォボス(不安[fear]の神)、エリス(不和の神)の三人がゴッサムシティに現れる。三人はそれぞれジョーカー、スケアクロウ、ポイズンアイビーに憑依して人間世界への侵略をもくろむが、それを知ったバットマンやワンダーウーマンと戦うことになる。戦いのさなか、フォボスはスケアクロウの肉体を離れ、バットマンに憑依して究極のパワーを手に入れる。

 『JLA/JSA: Virtue and Vice』…「人間の七つの大罪」(怒り、高慢、嫉妬、貪欲、暴飲暴食、色欲、怠惰)の精霊を封じ込めた石像が破壊され、各精霊がJLAJSAのヒーローに憑依する。この時、バットマンは「怒り」の精霊に支配され、それまで以上に攻撃的・暴力的になる。

 『Green Lantern: the Sinestro Corps』…ハル・ジョーダンの宿敵シネストログリーンランタン隊(銀河系を守護する平和維持組織)に対抗すべく、シネストロ軍団を結成しようとする。シネストロが作り出した指輪は、銀河各地から「相手に恐怖を与えることのできる人物」をリクルートするが、地球を含む星域で最初に選ばれたのはバットマンだった(バットマンは強靭な精神力で指輪の誘惑を拒否する)。

 もとより完璧な性格の人間などいないのだが、バットマン(ブルース)のこうした性格はどこから来たのだろうか。そもそもブルース・ウェインは上流階級の生まれである。アメリカの経済雑誌「フォーブス」によると、推定総資産額は68億ドルとなっている[*1]。幼い頃から一流の環境のなかで一流の教育を受けてきたことは間違いない。そのなかには当然、指導者としての心構えを説いた帝王学や近代政治学の基礎を築いたと言われるマキャヴェリの『君主論』やホッブズの『リヴァイアサン』なども含まれていただろうし、上流階級ならではのノーブレス・オブリージュの思想も学んでいたであろうことは想像にかたくない。

 ブルースにとっての正義の観念。それを一言で言うなら「上から目線の正義」ということになるだろうか。貴族や政治家などと同じ、一般市民を統治・支配する立場から見た正義である。支配者階級である彼らにとって重要なのは「社会の秩序を維持すること」であり、個人の幸福は二の次にならざるをえない。すると、必然的にベンサムが提唱した功利主義的な考え方にたどり着く。つまり、「最大多数の最大幸福」というものである。バットマンにとっては「ゴッサムシティの平和と安全」こそが最大の命題であり、それを達成するためなら、小さな不正を働くことも友人を裏切ることも必要悪の一つだと割り切っているのかもしれない。

 こうした考え方は、名作『Watchmen』に登場したオジマンディアスと同じものである。また、『コードギアス 反逆のルルーシュ』という人気アニメには、“相手の目を見て命令するだけで、その相手を自由に操る”ことができる特殊能力を持った人物が出てくるが、これも個人の自由意志よりも社会秩序を優先させているという点では「上から目線の正義」に他ならない。現実世界においても、かつての村社会でおこなわれていた間引きや『楢山節考』で描かれた姥捨て伝承は、家族や村という共同体を維持するために個人が犠牲となる必要悪の行為だったと言えよう。

 通常のDCユニバースとは異なる平行宇宙エルスワールドの話だが、こうした「上から目線の正義」を如実に示したエピソードがある。

 『The Tyrant』(Batman: Shadow of the Bat Annual #2)…両親が強盗によって射殺された後、幼いブルースはジョナサン・クレーン教授(スケアクロウ)に引き取られることになる。成長したブルースはバットマンとして活動を始めるが、すぐに正体を暴露されてしまう。しかし、ゴッサムシティの人々はブルースを歓迎し、やがてブルースはバットマンとして活動するかたわら市長にも選ばれる。ブルースが市長に就任して以来、犯罪発生率は減少していたが、それには理由があった。ブルースはクレーン教授の勧めにしたがって、飲料用の水道タンクに精神安定剤を混入させていたのだ。さらに、クレーン教授は犯罪傾向を持つ人々にだけ作用するような特殊な毒を開発し、それを水道水に混ぜることで、ゴッサムシティの犯罪者数を半減させようと考えていた。それを知ったアナーキー(旧設定の正史では、ジョーカーの息子だという暗示がなされている)は、他の犯罪者を集めてクーデターをもくろむのだが、計画は失敗に終わる。しかし、ブルースは自分がクレーン教授に操られていたことに気づき、テレビカメラの前でこれまでの罪を告白し、市民の手による処罰を甘んじて受け入れる覚悟を決める。

 このエピソードで描かれているブルースの正義は、ファシズムの域にまで達している。『1984年』で描かれた全体主義体制や『時計じかけのオレンジ』に登場した犯罪者更生プログラムと同根のものである。こうした社会体制の支配者層にとっては、一般市民は管理すべき「モノ」にすぎず、“善良な市民”ではなく“潜在的な犯罪者”として認識されている。

 フィリップ・K・ディックのSF小説に『マイノリティ・リポート』という作品がある[*2]。ここで描かれる未来世界では、予知能力者がこれからおこるであろう犯罪を予知し、それを未然に防ぐことによって犯罪発生件数を最小限に抑えている。まだ犯罪行為をしていない人間を逮捕するというのは本末転倒以外の何物でもないが、この未来世界においては、これが普遍的な司法システムとして確立しており、「個人の自由意志よりも社会秩序の維持のほうが重要である」という思想を端的に示している。実際、民主主義社会と独裁体制社会(ヒトラー時代のドイツやスターリン時代のソ連など)の犯罪発生率を比較すると、独裁体制社会のほうが低いと言われている。

 パノプティコンという特殊な構造をした刑務所がある。これは円形の建物で、中心部分に看守のいる塔があり、円周部分に囚人のいる牢屋が配置された構造になっている。また、看守からは囚人が見えるが、囚人からは看守が見えない仕組みになっており、囚人は自分が監視されているのかどうかを判断できない。これにより、最小人数の看守で多数の囚人を効率よく管理しようという試みである。パノプティコン方式の建築物は世界各地に存在している[*3]。本来は囚人用のシステムなのだが、これを社会全体に適用することも不可能ではない。

 実際、イギリスでは現在420万台以上の防犯カメラが設置されており、特にミドルスブラという町では防犯カメラの映像を係員がリアルタイムでチェックして、マナー違反者(ゴミを捨てる人や酒を飲む人など)に警告を発するという試みまでなされている。最近では「私は監視されている」と思いこむ新しい精神疾患も出現しているという[*4]

 こうしたシステムが社会全体に行き渡った場合、問題となるのは管理者自身の姿勢である。つまり、『Watchmen』でお馴染みの「誰が見張りを見張るのか」という疑問である。コミックの世界においては、バットマンは他のヒーローを見張っている。では、バットマンを見張るのは誰なのだろうか…?

 人気漫画『DEATH NOTE』では、死神のノートを手に入れた主人公のキラは、自らを新時代の神になぞらえて、次々と悪人を始末していく。しかし、彼の基準は極めて恣意的である。自分の地位を守るためなら、「計画にとって邪魔だ」「もはや不必要だ」という理由で、何の罪もない人間すら殺害していく。バットマンは自らに「不殺生の掟」を課しているが、彼がキラのようにならないという保障はどこにもない。

 しかしながら、バットマンを危険視しすぎるのも問題だろう。アウトサイダーであるバットマンが社会平和の維持に(ある程度)貢献しているのも事実である。それにバットマンが戦わなければならない「悪」は、凶暴な殺人犯や強盗犯だけではない。社会全体の公序良俗を維持するためには、売春、堕胎、自殺、不法移民といった、いわゆる“被害者なき犯罪”の問題とも取り組まねばならない。

 バットマンは(向こうから襲ってこないかぎり)自分から売春婦や不法移民を攻撃したりしない。時には飛び降り自殺者を救うこともある(※飛び降り自殺者を救う場面は、スーパーマンやスパイダーマンのコミックでよく見られる)。バットマンの弟子であるナイトウイングロビン(コミックではブルースの養子になっている)が飛び降り自殺者を救う場面もある。

 バットマンのもう一つの顔であるブルース・ウェインは慈善家としても知られており、ウェイン基金を設立し、数々のチャリティ活動をおこない、社会をより良い方向へと進ませようとしている。つまり、彼は無法者バットマンとして凶悪犯と戦うだけでなく、慈善家ブルースとしても現代社会が抱える問題と真摯に取り組んでいるのだ。ヘブライ語で「tzedek」とは「正義」を意味する単語だが、この言葉には「慈善」や「公平さ」といった意味もある。彼は正義には二つの側面があることを知っており、「上から目線の正義」だけでは平和が実現できないことを十分に知っている。『The Nobody』(Batman: Shadow of the Bat #13)においても、社会的弱者に対するやさしさを持っていることが示されている。こうした視点を失わないかぎり、バットマンが冷酷な独裁者になることはないだろう。

 バットマンを見張る者、それは今のところバットマン自身の内的モラルだけであり、彼が自我崩壊をおこして一線を越えないことを願うのみである。

 

【ジョーカーの虚無】

   私は文明という言葉が大嫌いだ。なぜなら、それは虚偽を意味するからだ。
   《マーク・トゥエイン

   破壊のために生まれてきたことを自覚した人間が、どうして自分の傾向に逆らう必要があろうか?
   《マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』》

 『ダークナイト』におけるジョーカー像とコミックにおけるジョーカー像は微妙に異なっている。映画における一番の変更点は、コミカルな要素を排除したことである。これにより、ジョーカーの凶暴性と危険性が一層際立つことになった。結果的には、この演出は成功したと言えるだろう。

 そもそもジョーカーとはどういう存在なのだろう。以下、コミック世界におけるジョーカーの姿を紹介する。

 バットマンが初登場したのは「Detective Comics #27」(1939)であり、ジョーカーが初登場したのは翌年の「Batman #1」(1940)である。誰がジョーカーというキャラクターを作ったのかについては異説がある。バットマンの原作者として知られるボブ・ケインは自分とビル・フィンガーが創造したと語っているが、ジェリー・ロビンソンは自分が最初にジョーカーを描いたと主張している。ボブ・ケインは他の人間の手柄を横取りするという一面も持ちあわせており、真相のほどは不明だが、いずれにしろ、ジョーカーのビジュアルにはサイレント映画『The Man Who Laughs』に出てくるキャラクターとの類似が認められる(『The Man Who Laughs』は、『レ・ミゼラブル』で有名なヴィクトル・ユーゴーの同名小説を映画化したもの)。

 ジョーカーの基本的な性格は、コミックにはじめて登場した時からほとんど変わっていない。つまり、サイコパスの殺人鬼である。彼のオリジン(誕生秘話)がはじめて明らかにされたのは、デビューから10年後の「Detective Comics #168」(1951)であり、ジョーカーとなる以前にレッドフードという名の悪人だったことが語られている。

 ジョーカーのオリジンについては、アラン・ムーアが脚本を担当した『Batman: the Killing Joke』(1988)が有名だが、それとは異なる別バージョンもある。ポール・ディニアレックス・ロスが手がけた「Case Study」(『Batman: Black & White Vol.2』『Joker: Greatest Stories Ever Told』に収録)では、彼は自分の意思でレッドフードとなり、ジョーカーとなった後も狂気を装っているだけだという可能性が示されている。また、『Batman: Lovers and Madmen』(2007)で描かれたオリジンでは、レッドフードが登場しないまったくの別物となっている。これらは別に編集者のミスではない。複数のオリジンが存在すること、つまり矛盾を抱えた理解不能な存在であるということ自体が、ジョーカーの性質を端的に物語っているのだ。

 1954年、コミック業界は自主規制の証として「コミックス・コード」を制定することになる。ここで定められたルールのなかには、「どんな場合においても、善は悪に対して勝利を収めなければならない」「過度の暴力場面は禁止」といった項目もある[*5]。これにともない、ジョーカーの犯罪もトーンダウンせざるをえなくなる。

 1960年代はもっとひどかった。ジョーカー嫌いの編集者ジュリアス・シュワーツがバットマンのコミックの編集長の座に就いたため、ジョーカーはコミックの世界からほとんど姿を消してしまう(その代わりにテレビ版『バットマン』が人気を博す)。

 けれども、1973年、バットマンのコミックはシリアス路線へと変更され、デニス・オニールニール・アダムスが手がけた「Batman #251」においてジョーカーは劇的な復帰を果たす。それ以降は名実ともにバットマンの宿敵としての座を維持し続けている。

 余談だが、ジョーカーが使用する毒薬(ジョーカー・ヴェノム)について説明しておこう。この毒薬は液体や気体などさまざまな形で利用されるのだが、この毒におかされた被害者は笑いながら(笑った顔のまま)死ぬという点では同じである。一般的には、この毒薬を開発したのはジョーカー自身だということになっているが、別の研究者に開発させたものをジョーカーが横取りしたという異説もある(ここでも矛盾が見られる)。

 笑気ガスというのは実際に存在している。1772年にジョゼフ・プリーストリーが発見したもので、その正体は亜酸化窒素である。当時は「ハイな気分になれるガス」ということで、一種の興奮剤としてパーティーなどで使用されていたのだが、中毒患者が続出したためにブームは下火になったそうだ。笑気ガスは現代でも歯科治療時などに使用されることがある。ジョーカーが使用しているジョーカー・ガスは、この笑気ガスに毒物を混入して作られたものだと考えられる。

 ちなみに、医学博士の上野正彦が「笑い顔のまま死ぬ人はいるか?」「笑い死にはあり得るか?」という考察をおこなっている[*6]。それによると、笑いすぎると呼吸困難に陥ることはあるが、それで死ぬことはめったになく、死んだ後は顔面の神経が麻痺するので、笑い顔の死体も存在しないそうだ。

 さて、次に、ジョーカーがおかした犯罪の数々を見てみよう。

 「The Laughing Fish」(Detective Comics #475-476 『Joker: Greatest Stories Ever Told』に収録)…ジョーカーは特殊な毒物を用いて、ゴッサムシティ近辺で水揚げされた全ての魚の顔を自分と同じ笑顔へと変形してしまう。しかも、その魚の顔を商標登録することにより、漁業関係者や消費者から特許使用料をもらおうと画策する。

 (※このあらすじだけを読むと、いかにもバカバカしい話のように聞こえるが、これは普通の人間には理解不能なジョーカーの狂気を的確に表現したエピソードとして高く評価されている。この背景には、裁判社会と言われるアメリカの事情も関係しているのだろう。アメリカには常識はずれとしか言いようのない裁判事例がいくつもある。たとえば、世界貿易センター爆破事件の犯人であるラムジー・ユーセフという男は、自分が服役している刑務所の規則が「拷問、嫌がらせ、侮蔑、脅迫、市民的権利の侵害」にあたるとして訴えをおこし、110万ドルの損害賠償を請求したこともある[*7]

 『Batman: the Killing Joke』…ジョーカーはゴードン本部長の自宅へと侵入し、姪のバーバラ(バットガール)の腹部に銃弾を撃ちこみ、下半身不随にしてしまう。その後、ゴードンを拉致したジョーカーは、バーバラが暴行を受ける場面を見せつけてゴードンを精神的にいたぶる。

 『Batman: A Death in the Family』…実の母親を捜し求める二代目ロビン(ジェイソン・トッド)は、エチオピアで支援活動をしていた母親シーラと念願の再会を果たすが、彼女はジョーカーに脅迫されていた。シーラは息子を裏切って、ジェイソンをジョーカーに引き渡す。ジョーカーはジェイソンを殴って半殺しにした後、ジェイソンとシーラを爆弾で殺害する。その後、ジョーカーはイランの指導者ホメイニ(実在の人物)のもとで、国連におけるイラン代表としての地位を授与され、外交官特権を手に入れる。国連会議で演説をおこなうことになったジョーカーは、毒ガスを散布して各国の外交官を皆殺しにしようとするが、スーパーマンによって阻止される。

 『Batman: No Man's Land』…大地震や疫病の発生により壊滅的な打撃をこうむったゴッサムシティは、合衆国政府の判断により“居住不可地域”に指定され、本土から隔離されてしまう。ほとんどの市民は本土へと移住したが、バットマンやゴードンをはじめとする一部の人間はゴッサムに残り、悪人たちと縄張り争いを展開することになる。1年間の隔離政策が終わりを迎える直前、ジョーカーは複数の赤ん坊を誘拐して市警本部ビルに侵入し、ゴードンの二番目の妻であるサラ・エッセンを射殺する。

 「Birds of Prey #16-17」…『No Man's Land』事件の直後、ジョーカーは中東の小国クラク(DCユニバースにある架空の国)へと逃れ、その国の大使の座に就く。クラクは周辺諸国に戦争をしかけ、紛争を解決するために国連軍が出動することになる。ジョーカーはクラク大使としてニューヨークを訪れ、国連軍が撤退しないなら、ニューヨークに中性子爆弾を落とすと脅迫するが、バーズ・オブ・プレイの活躍によって事件は解決する。

 『Batman: the Joker's Last Laugh』…余命いくばくもないと診断されたジョーカーは、特殊な毒ガスを使って他の悪人たちをジョーカー化させて、自分の後継者を作り出そうと考える。ジョーカー化した悪人はさらに凶悪になり、世界中が大混乱に陥る。

 『Superman: Emperor Joker』…ジョーカーは五次元の住人ミスター・ムクジプトルクの超科学パワーを奪い、現実世界を改変してしまう。この世界ではジョーカーが皇帝であり、バットマンは何度も殺されて何度も復活させられることになる。

 「Soft Targets」(Gotham Central #12-15 『Gotham Central: Unresolved Targets』に収録)…クリスマスの直前、ジョーカーは長距離ライフルを使って無差別連続殺人事件をひきおこす。ジョーカーは警察署のパソコンネットワークを乗っ取り、次の犯行予告までおこなう。やがて、テレビの女性アナウンサーが誘拐されるが、その直後、ジョーカーは自らの意思で警察に出頭し、バットマンに特別なプレゼントを贈ると告げる。

 「Batman #663」(『Batman: Batman and Son』に収録)…至近距離から銃で撃たれ重傷を負ったジョーカーは、大がかりな整形手術を受けた後、アーカム・アサイラムへと収容される。一方、塀の外の世界では、ジョーカーのかつての部下が次々と殺されていく。それはジョーカーからの指示を受けたハーレー・クインの仕業だった。アーカム・アサイラムへと出向いたバットマンはジョーカーと対面するが、ジョーカーの真の目的はバットマンの目の前でハーレー・クインを殺すことだった。

 このように、コミックの世界においてはジョーカーは一貫して狂気の殺人鬼として描かれている。『Joker: Devil's Advocate』によると、ジョーカーが殺した犠牲者の数は2000人を超えるとされている。では、ジョーカーの精神構造についてはどういう解釈がなされているだろうか?

 『Batman: Arkham Asylum』のなかでは、精神科医がジョーカーについて“現代社会に適応した新しい形の認識形態であり、超正気とでも呼ぶべき精神構造”ではないかと述べている。ここには脚本を担当したグラント・モリソンの考えが反映されている。彼は多重人格症状を人間の意識が進化した状態だととらえている[*8]。同じくグラント・モリソンが脚本を書いた「Batman #663」では、ジョーカーには核となる人格がなく、トランプをシャッフルするように毎日新しい人格を作り出しているのではないかという示唆がされている。

 

 一方、『ダークナイト』におけるジョーカーはどうであろうか? 彼は本当に“狂人”なのだろうか? 結論から言うと、『ダークナイト』におけるジョーカーを狂気と呼ぶことはためらわれる。病院の場面で、ジョーカーはトゥーフェイスに対して「俺は自動車を追いかける犬と同じように本能で行動する。警察やマフィアのように計画を立てる策士ではない」と語っているが、これは半分事実で半分嘘である。ジョーカーが極めて高い知能指数を持った反社会性人格障害者であることは間違いない(※反社会性人格障害の特徴は常習的な違法行為、攻撃性、虚言癖、無責任、良心の欠如などである)。これをもってジョーカーに精神異常という診断を下し、「狂気」というレッテルを貼ることは簡単である。しかし、ジョーカーにはそれ以上の何かがあるような気がする。

 普通、犯罪には動機がともなう。では、ジョーカーの動機は何だろう?

 金銭? ジョーカーは札束の山に火をつけて燃やしている。彼にとって金は無価値である。

 社会に対する恨み? ジョーカーが社会全体に対して怒りを感じているとは思えない。怒りと笑いは共存しないからだ。

 快楽殺人? ジョーカーが殺人そのものを楽しむ快楽殺人鬼なら、もっと残虐で執拗な手段を選ぶはず。人にナイフを突きつけているが、明確なサディズムは感じられず、むしろ無頓着である(※コミックの世界では、ブラックマスクZSASZなど明らかにサディスティックな傾向を持った悪人がいるが、ジョーカーがサディズムの嗜好を見せることはあまりない。二代目ロビンを殺害した時とバーバラを暴行した時ぐらいか)。

 支配願望? ジョーカーはギャングに対し「俺の部下になれ」と言い、後には「この街は俺のものだ」と宣言している。これらは他者に対する支配欲・征服欲を示しているが、それにこだわっている様子はなく、明確な権力志向は見られない。

 愉快犯? 世間を騒がせて楽しむこと自体が目的なら、もっと簡単な方法がいくらでもある。

 自己愛? ジョーカーの行為は劇場型犯罪ではあるが、世間の注目を浴びることが最終的な目的だとは思えない。

 狂信? ある種のカルト教団は誇大妄想的な思想を信奉するあまり、革命をおこして国家を転覆させようと企むことがある。しかし、ジョーカーの行動に宗教性は見られない。

 歪んだ自殺願望? 自分の人生に絶望した犯罪者のなかには、裁判で死刑になることを目的として、大量殺人を実行する場合がある。しかし、死刑になることが目的なら、最初の犯行で捕まればよい。

 誇大妄想? 連続殺人犯のなかには「自分は神だ」と豪語するものがいる。人間の命(=価値のあるもの)を奪うことで、自分が神のごとき絶対的な力を持っていると思いこむらしい。人の命を奪って神になれるのなら、人を愛して新たな命を生み出すことでも神になれるはずなのだが、そうした考え方は彼らの頭からは(都合よく)抜け落ちている。

 …その他にもいろいろと考えられるが、どれもしっくりこない。一番しっくりくる答えは、「常人には理解不能」というものである。

 『ダークナイト』のなかで、ジョーカーは何度か自殺傾向をほのめかせるような行動を見せている。自分の体に爆弾を巻きつけてマフィアの会合に押しかけたり、自分を死体袋につめてギャングのアジトに侵入したり、バットポッドに乗って突撃してくるバットマンに向かって「俺を殺せ」を叫んだり、病室でトゥーフェイスに銃を渡したりといった具合である。これらはジョーカーの自殺願望を表しているのだろうか? これらの行動を、ジョーカーの無意識的な自罰行為、すなわち「早く自分を止めてほしい」という良心の叫びだと解釈することも可能かもしれないが、おそらくそうではない。これこそ、「自分の命すら何の意味もない」というジョーカーの“常人には理解不能”な非人間的心理の混沌状態を如実に示したものだと言えるだろう。

 哲学者ニーチェの概念の一つに“能動的ニヒリズム”というのがある。個人の精神の力が強くなりすぎると、従来の価値観を必要としなくなる。そういう人間は「人生や世界は無意味である」という認識を持つものの、自分から何かを創造しようとはしない。そのため、あり余ったエネルギーは従来の価値観や社会全体の破壊に向かい、反社会的な人間を生み出すという。

 わかりやすい例えをするなら、反抗期の青少年のような心理だろうか。この時期の青少年は、自分が社会からの期待に応えられないと思いこむと、あえて反社会的な非行に走ることで自分の居場所を見つけようとする場合がある。心理学の世界では、これを「否定的同一性」と呼んでいる。

 また、思春期の青少年はエゴが肥大して、何の実力もないのに全てを悟ったような万能感を抱く場合がある。本や漫画で新しい知識や価値観に触れると、批判することもなく、それが唯一絶対の真実だと思いこんだりする。自分及び自分が認めたものだけが価値があり、その他のものは全て無価値だと見なす。幼稚な精神構造をもった“井の中の蛙”、いわゆるジコチュー人間である。

 こうした人間は時として「悪の美学」に心酔することがある。精神的に未成熟な人間は、それまでとは違う価値観を示されると、“目からうろこが落ちた”ようになって、これこそ真実だと思いこむ。『ダークナイト』のなかでジョーカーの部下になった男たちも、ジョーカーというカリスマが提示した「悪の美学」に魅せられたのかもしれない。

 コミックの世界にも、正反対の価値観を持ったキャラクターはいる。たとえば、スーパーマンの宿敵の一人ビザーロはコミカルなキャラクターではあるが、「善は悪」「美は醜」「真実は嘘」といった普通とは逆の価値観のなかで生きている。また、アース3という平行宇宙は、善と悪の価値観が逆転した世界であり、悪のJLAとも言うべきクライム・シンジケート・オブ・アメリカによって支配されている。

 しかし、ジョーカーの心理は、ただ単に従来の価値観を逆にしただけというような単純なものではないように思える。先ほど述べた「自分の命すら無価値」といった虚無的な要素があるからだ。ジョーカーという存在にはどこか哲学的なところがある。それはまるで「デレオ・エルゴ・スム(我、破壊する。ゆえに我あり)」とでも呼べるような根源的なものである。精神分析学の祖フロイトは、人間には「生の本能」と「死の本能」があると考えたが、その言葉を借りるなら、ジョーカーには「死の本能」しかないのかもしれない。

 マーベル・ユニバースにギャラクタスという巨人がいる。彼は超古代から生きている半神存在で、一つの惑星を丸ごと(住民も含めて)エネルギーに変換して、それを喰らって生きている宇宙魔神である。ギャラクタスによって滅ぼされた文明惑星は数多く、何の罪もないのに滅ぼされた住民にとっては「邪悪な悪魔」「宇宙規模の大量殺人鬼」以外の何者でもない。何度か地球にやって来たこともあるが、ファンタスティック・フォーによって阻止されている。さて、ある時、地球にやって来たギャラクタスは今回もファンタスティック・フォーによって阻止される。しかし、このままではギャラクタスは飢え死にしてしまう。ミスター・ファンタスティックはギャラクタスを殺すことはできないと考え、当面の食料として惑星の擬似エネルギーをギャラクタスに与えて外宇宙へと送り出す。その後、ギャラクタスは別の銀河系を目指し、そこで一つの惑星を喰らうのだが、そのことが新たな問題をひきおこす。一つの惑星が滅んだのはギャラクタスを殺さなかったからだとして、銀河系の列強種族がミスター・ファンタスティックを逮捕して裁判にかけたのだ。しかし、その裁判において、ギャラクタスの行為は「悪」かもしれないが、宇宙全体の秩序を保つためには必要不可欠な存在だということが明らかになる。つまり、シマウマを殺すライオンが「悪」ではないように、ギャラクタスもまた(ブラックホールのように)自然の力の一つにすぎないと結論づけられたのだ(「Trial of Galactus」 Fantastic Four #242-244, 261-262)。

 宇宙魔神であるギャラクタスと人間にすぎないジョーカーを同列に論じることには無理があるが、それでもジョーカーの「悪」の裏には他の犯罪者にはない何か、普通の人間を超越した何かがあると思えてならない。ジョーカーの行為を見た観客が感じるのは、「殺人鬼に殺されるかもしれない」という肉体的な恐怖ではなく、「我々が無条件に信じてきた価値観や人間性といったものを破壊されるかもしれない」という心理的な不安である。つまり、ジョーカーの行為は個人に対する非道ではなく、人類全体あるいは人間性そのものに対する挑戦である。テロリストや戦犯を裁く時には「人道に対する犯罪」(Crime Against Humanity)という言葉が使われることがあるが、ジョーカーの行為はまさにそれである。それを象徴的に示している場面が「Swamp Thing #30」(『Swamp Thing: Love and Death』に収録)に描かれている。スワンプシング(地球の植物生態系を具現化した存在)の宿敵アーケインがアメリカ全土に恐怖と狂気をまき散らした時、アーカム・アサイラムに収容されていたジョーカーは笑うのをやめるのである。この世界が混沌に包まれたなら、ジョーカーという存在はもはや不要であるということを雄弁に物語っている。ジョーカーは映画のなかで頻繁に爆弾を使用しているが、あれには理由がある。あれは「何かを破壊する」ということの象徴であり視覚的表現である。

 ジョーカーは人間性を破壊し、世界そのものを破壊する。それはまさにトリックスターである。中世の宮廷道化師は「道化」という形を借りて国王を批判したが、彼らは「愚か者」であるがゆえに処罰されることはなかった。そういう意味では、『ダークナイト』におけるジョーカーは世界という舞台の上で、人間存在そのものを笑い飛ばす究極のトリックスターだと言えるのかもしれない。ちなみに、タロットカードに「愚者」というカードがある。「0」という特殊な番号を持ち、正位置では「自由、天才」を意味し、逆位置では「軽率、落ちこぼれ」を意味する。これがトランプのジョーカーの原型になったという説は現在では否定されているらしいが、なんとなく意味深ではある。

 ジョーカーを「狂気」「狂人」と呼ぶことはたやすい。「反社会性人格障害」とか「サイコパス」といった診断名をくだすことも可能である。しかし、それではジョーカーの本質を捉えることは多分できないだろう。ジョーカーにレッテルを貼ることは、彼を既存の枠組みのなかに落としこむことである。しかし、それは間違っている。彼の本質は既存の枠組みでは推し量れない何か、常人には理解不能な何かである。逆説的な言い方だが、“その本質を捉えることができないこと”こそが、ジョーカーの本質なのである。

 ジョーカーはただの犯罪者ではない。「人間性の破壊者」である。そういう意味では、もっとも危険な存在である。人の姿をしていながら、人の心を持たぬもの。我々は彼をどうやって裁けばいいのだろうか?

 

【ヒーローは悪人を殺すべきか】

   バッサーニオ 「嫌いなものは殺してしまう。それが人間のすることか?」
   シャイロック 「憎けりゃ殺す、それが人間ってもんじゃないのかね?」
   《シェイクスピアヴェニスの商人』 第四幕第一場》

 バットマンには絶対に破ってはならない神聖不可侵のルールがある。それは「たとえ悪人でも、命を奪ってはならない」というものである。ヒーローが悪人を殺すべきかどうかについては、昔から議論がなされているが、最終的な結論が出せる問題ではないので、今後も同じような議論が繰り返されることだろう。以下、コミックの世界において、ヒーローたちが犯した殺人(未遂)事件のいくつかを紹介する。

 『Batman: No Man's Land』…1999年、ゴッサムシティは政府の定めた法律により合衆国本土から隔離され、無法地域と化す。1年間の隔離政策が終わりを迎える直前、ジョーカーは複数の赤ん坊を誘拐して市警本部ビルに侵入する。ゴードンの二番目の妻であるサラ・エッセンは赤ん坊を救い出そうとして、ジョーカーに射殺される。姪のバーバラ(バットガール)に続いて家族を傷つけられたゴードンは、怒りと悲しみのあまりジョーカーに銃を向ける。バットマンはあえて止めようとしないが、ゴードンはなんとか自分を抑え、ジョーカーの膝を撃ちぬくだけにとどめる。

 『Batman: the Joker's Last Laugh』…余命いくばくもないと診断されたジョーカーは、特殊な毒ガスを使って他の悪人たちをジョーカー化させて、自分の後継者を作り出そうと考える。より凶悪化したヴィランの集団脱獄により世界中が大混乱に陥るが、バットマンたちの活躍により事件は解決される。しかし、そのクライマックスにおいて、三代目ロビンを殺されたと思いこんだナイトウイングはジョーカーをめった打ちにして息の根を止めてしまう。ジョーカーは人工呼吸をほどこされ息を吹き返すのだが、一時的とは言えジョーカーを殺してしまったナイトウイングは、罪悪感に苦しめられることになる。

 『Batman: Hush』…幼なじみのトーマス・エリオットを殺されたと思いこんだバットマンは、怒りにかられてジョーカーを殴り殺そうとする。しかし、最後の一撃を加える直前、ゴードンに説得されて思いとどまる。

 『Batman vs. Aliens』…バットマンは行方不明になった地質学者を捜索するために、中南米のジャングル奥地へと飛ぶ。古代遺跡のなかで凶暴なエイリアンと遭遇したバットマンは、最終的にエイリアンを殲滅させて脱出する(※『Green Lantern vs. Aliens』という作品のなかでは、銀河系を守護するグリーンランタン隊がエイリアンと遭遇する。グリーンランタンの組織にも不殺生のルールがあるのだが、彼らは「エイリアンは殺傷本能をもった危険な生物だが悪ではない」と判断して、一つの惑星に閉じこめようとする)。

 『Superman: Sacrifice』…マックス・ロードに洗脳されたスーパーマンが幻覚にとらわれ、バットマンに瀕死の重傷を負わせる。ワンダーウーマンはスーパーマンの洗脳を解くにはマックスを殺す以外にないと判断し、マックスの首の骨を折って殺害する。回復したバットマンは殺人という罪を犯したワンダーウーマンを冷たく拒否し、スーパーマンに対しても「地球最強の力を持った存在に、洗脳されたからなどという言い訳は許されない」と断罪する(詳しいあらすじはこちら)。その後、ワンダーウーマンはオランダのハーグにある国際司法裁判所で司法の裁きを受けることになるが、正当防衛と見なされて無罪判決を言い渡される[*9]

 「Nightwing #93」…ナイトウイングの正体がディック・グレイソンであることを知った暗黒街の大物ブロックバスターが、ナイトウイングの友人知人を皆殺しにしようとする。タランチュラ(カタリーナ・フロレス)という名のビジランテがブロックバスターを射殺しようとした際、ナイトウイングはそれを阻止することもできたのだが、友人たちを守るため、あえて手出しすることなく、ブロックバスターを見殺しにする道を選ぶ。「人を殺さない」というルールを破ってしまったナイトウイングは、精神的ショックのあまり、一時的な自閉状態に陥ってしまう。タランチュラはその状況を利用して、ナイトウイングをレイプする。女性が男性をレイプするというショッキングな展開は、読者の間でも物議をかもした。

 「Action Comics Annual #1」…吸血鬼にのっとられた村を救うため、バットマンはスーパーマンの手を借りることにする。その際、バットマンは傷ついたスーパーマンを助けるために吸血鬼を刺し殺す。

 「Superman #22」…スーパーマンは異次元宇宙ポケット・ユニバースを滅ぼしたクリプトン星人の犯罪者3人をクリプトナイトを使って処刑する。その後、罪悪感にさいなまれたスーパーマンは外宇宙へと逃避行に旅立つ。

 「Action Comics #719」…スーパーマンの婚約者であるロイス・レーンがジョーカーの毒に冒されて意識不明の重体に陥る。解毒剤を手に入れるためにはジョーカーを殺すしかない。スーパーマンはジョーカー殺害を決意するが、バットマンに説得されて思いとどまる。その後、ロイスは回復するが、スーパーマンの行動を知ったロイスは婚約を解消する(その半年後に結婚するのだが)。

 『Wonder Woman: Eyes of the Gorgon』…ワンダーウーマンは国民がテレビ中継で見守るなか、ギリシア神話の怪物メデューサと闘技場で戦うことになる。ワンダーウーマンは両目の失明という犠牲を払いながらも、メデューサの首を切り落として殺害する。

 『Kingdom Come』…アース22と呼ばれる平行宇宙では、マゴッグという名のアンチヒーローがジョーカーを殺害する。マゴッグは裁判にかけられるが、ジョーカーの殺害は「正義の行動」であると判断され無罪判決を受ける。市民の意識調査でも、マゴッグを支持する人が77%、スーパーマンを支持する人が18%という結果になる。

 …ここで注目したいのは、エイリアン・吸血鬼・メデューサといった怪物を(追いつめられた末に)殺していること。バットマンの敵のなかには、キラークロッククレイフェイスなど「怪人」と言うよりも「怪物」と呼んだほうがいいようなキャラクターも登場している。しかし、バットマンが彼らを殺すことはない。彼らはどんな姿であろうと「人間」だと見なされており、それゆえにその命には価値があると考えられているからだ。人間とチンパンジーのDNAを比較すると、98.4%が一致しているという。ネズミと比較しても80%、ミミズと比較しても40%が一致しているらしい。普通の人間とメタヒューマン(超人や怪人)のDNAがどの程度一致しているのかはわからないが、人間と非人間の境界線(すなわち殺しの境界線)はどこにあるのだろう。「ヒューマノイド型の知的生命体の命は価値があり、非ヒューマノイド型の生命体の命は価値がない」というような単純な人間中心主義による区別でもないようだ。ヒーローたちが掲げる生命倫理はきわめて恣意的であり、絶対的な根拠のないあやふやな概念であることがわかる。

 「Batman & Superman: World's Finest #7」(『Superman/Batman: the Greatest Stories Ever Told』に収録)のなかで、バットマンとスーパーマンが他者の命を奪うことについて議論を交わす場面がある。スーパーマンは「あらゆる物を破壊する凶暴な怪物と戦う羽目になったら、自分の命を引き換えにしても怪物を殺して阻止する」と語る(その後、この言葉通り、スーパーマンはドゥームズデイと戦って“死亡”することになる)。一方、バットマンは「自分が死ぬかジョーカーを道連れにするかという状況に追いこまれたとしても、何か方法があるはずだ」と語る(これでは答えたことにならないのだが)。

 結局、ヒーローたちも迷っているのである。理想と現実がせめぎあう世界のなかで、ヒーローたちも迷い、苦しみ、悩み続けているのだ。それは決して優柔不断なことではない。「人の命は大切だ」とか「悪人は死刑にすべきだ」というふうに簡単に答えを出してしまうほうが、よほど危険である。解決できない悩みを抱えて生きることは、つらいことかもしれない。しかし、それは悩みに耐える強さを持っているということでもある。人は強さがあるから悩むことができ、悩むことによって強くもなれる。簡単に答えを出すことは要注意である。

 

【バットマンとジョーカーの関係】

   私たちは互いに一緒には生きていけないが、同時にお互いなしでも生きていけないタイプだった。
   《妻を殺した男の法廷での証言(1935年 イギリス)》

 バットマンとジョーカーは表裏一体の関係にある。彼らは明智小五郎怪人二十面相シャーロック・ホームズモリアーティ教授のように切っても切り離せない関係にある。そのことは、さまざまな場面で何度も語られている。たとえばコミックでは以下のような形で表現されている。

 『Batman: Going Sane』…バットマンを撲殺したと思いこんだジョーカーは、精神的ショックのあまり記憶喪失に陥ってしまう。彼はジョー・カールと名乗って普通の生活を始めるが、回復したバットマンの姿を見て、再び元の人格に戻る。

 『Batman: Dark Detective』…ジョーカーは自分とバットマンの関係について、「自分は自然の力であり、そこには反作用の力がなければならない。もし俺がバットマンを本当に殺したら、バットマンは完璧な存在ではなくなる。バットマンを殺せないという事実そのものが、俺自身が完璧だということの証明になる」という独特の論理を披露している。

 『Superman: Emperor Joker』…超科学パワーを用いて現実世界を改変し皇帝の座に就いたジョーカーだが、バットマンの存在を消滅させることはできない。ジョーカー自身が存在し続けるためには、バットマンの存在が必要不可欠だということが示されている。

 「Batman #663」…ジョーカーはバットマンに対し、「俺たち二人は意味のない世界で意味を見つけ出そうとしている。お前が俺を殺せば、お前は俺と同じ存在になる。俺と渡りあえるのはお前だけであり、俺もお前を殺すことはできない」「喜劇が成立するためには、お前のような真面目な役者が必要だ」と語っている。

 『Dark Knight Returns』…現役を引退していたバットマンだが、再びビジランテ活動を再開する。それに呼応するようにして、アーカム・アサイラムに収容されていたジョーカーも活動を開始する。

 コミックのなかでバットマンとジョーカーの関係を一番象徴的に描いているのは、エルスワールド物の『Batman: Two Faces』だろう。これはスティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』のパロディで、特殊な薬物を飲んで怪力を得たブルースがバットマンになると同時に、殺人鬼ジョーカーという別人格を生み出してしまうというストーリーである。

 また、ティム・バートン監督の映画『バットマン』では、ブルースをバットマンへと変えたのはジャック・ネイピアという強盗であり、ジャックがジョーカーへと変貌したのはバットマンのせいだという相互補完的な設定になっている。

 一方、『ダークナイト』においても、こうした表裏一体の関係は各所で言及されている。留置場のシーンでは、ジョーカーが「俺たちはどちらもフリークだ。俺はお前を殺したりしない。お前のおかげで俺は完全になれる」と語っており、クライマックスのシーンでも、「お前は正義感のために俺を殺せない。俺もお前を殺すような野暮なまねはしない。これが永遠に続くのさ」と告げている。二人の関係については、ジョーカーのほうが的確な認識を持っているようだ。ちなみに、ペントハウスのパーティーの席上でバットマンとジョーカーが初遭遇する場面で、バットマンはジョーカーに対し「Then you're going to love me.」という台詞を口にしている。本人は気づいていないだろうが、実に象徴的な言葉である。

 さて、バットマンとジョーカーは表裏一体の関係ではあるが、ここにスーパーマンとレックス・ルーサーを加えるとどうなるだろう。それぞれが象徴するものを考えてみると、スーパーマン=正義の顔をした正義、レックス・ルーサー=正義の顔をした悪、バットマン=悪の顔をした正義、ジョーカー=悪の顔をした悪ということになるだろうか。別の言い方をするなら、観念としての絶対善、利己的な正義、懲罰手段としての必要悪、観念としての絶対悪とも言えるだろう。ここにワンダーウーマンを加えるならば、さらに複雑な善悪モデルの構築が可能となる。

 現実世界には、さまざまな善と悪があり、さまざまな正義と不正がある。これらの現実はフィクションの世界へと受け渡されて、スーパーヒーロースーパーヴィランという人格へと変換される。フィクションの世界で表現されているのは、カリカチュアされた現実であり、我々自身の姿に他ならない。結局、バットマンやジョーカーについて考えるということは、我々自身について考えるということと同義なのである。

 

【デントの希望】

   希望とは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。
   《魯迅

 『JLA/Spectre: Soul War』(2003)という作品がある。トランスという精神寄生体が地球侵略を目論み、JLAスペクター(ハル・ジョーダン)が協力して立ち向かうというストーリーである。ハル・ジョーダンについて少し説明しておくと、空軍のテストパイロットだった彼は銀河警察「グリーンランタン隊」の一員に選ばれた後、恐怖を具現化した太古の生命体パララックスに憑依されて他のメンバーを皆殺しにし、死後は復讐の精霊スペクターへと転生し、再びグリーンランタンとして復活するという波乱万丈の人生を送っている人物である。ハルは“恐れを知らぬ男”として有名であり、相手に恐怖を与えることを自らのアイデンティティとしているバットマンとは基本的に仲が良くない。

 さて、『JLA/Spectre: Soul War』のラストで、バットマンはハルに向かって次のようなことを語っている。「君はヒーローのなかでも一番明るい存在だった。君がパララックスに憑依されて悪の道に走った時、私は大きなショックを受けた。君のような清く正しい心の持ち主でも堕落するというのなら、我々凡人にはもはや希望などないと思った。だが、今わかった。君がスペクターとして転生したのは、我々に希望を与えるためなのだと」

 この作品におけるハルは、『ダークナイト』におけるデントと同じ意味を持っている。「光の騎士(White Knight)」と呼ばれたデントは地方判事として、ゴッサムシティを食い物にするマフィアと戦っている。デントはブルースとの会食の場面で、「英雄として死ぬか、生きながらえて悪に染まるか」と述べるが、その予言めいた台詞は後に現実のものとなる。ジョーカーに目をつけられた彼は恋人レイチェルを失い、自らも傷を負う。ジョーカーの甘言により自我崩壊をおこしたデントはトゥーフェイスへと変貌し、復讐のため、警官を含む複数の人間(映画では5人となっている)を殺害する。映画のラストでデントは死を迎えるが、バットマンとゴードン本部長は彼が殺人を犯したことを秘密にしようとする。その目的は、ゴッサムシティの市民に希望を与え続けるためである。

 デントの人生は、インド独立に尽力したガンジーや黒人差別撤廃を訴えたキング牧師とも相通じるところがある。ガンジーとキング牧師は、二人とも非暴力主義者で、暗殺によって命を落とした。しかし、彼らが残したメッセージは色あせるどころか、より一層人々の心に刻みこまれることになった。

 デントの死は殉教者の死である。人々の心から希望を失わせないためには、デントは善人として死ななければならなかった。だからこそ、バットマンとゴードン本部長は悪人トゥーフェイスの死を、善人デントの死として偽装することに決めたのだ。人々は亡くなったデントの偉業を称え、彼の遺志を継ごうとするだろう。たとえそれが偽りと誤解に基づくものであったとしても、結果として市民を安心させ、ゴッサムシティの治安を保つことに役立つのなら、「嘘も方便」として認めざるを得ないと判断したのだろう。

 ギリシア神話に「パンドラの箱」というエピソードがある。英雄プロメテウス(「前に考える」という意味)が天上の火を盗んで人間に与える。最高神ゼウスは人間を罰するため、パンドラ(「全ての贈り物」の意)という女性に、他の神々からの贈り物がつまった箱を持たせて人間界に送りこむ。プロメテウスの弟のエピメテウス(「後で考える」の意)はパンドラと結婚し、パンドラは決して開けてはいけないと言われていた箱を開けてしまう。箱のなかからは病気や災害が飛び出して世界中に飛び散っていく。これにより、人間はさまざまな災いに苦しめられることになった。しかし、箱の底にはただ一つ「希望」だけが残っていた…。

 一般的には、希望があるおかげで人間は生きていけるという好意的な解釈がなされているようだが、哲学者のニーチェは逆説的な意見を述べている。ニーチェは『人間的な、あまりに人間的な』のなかで、「パンドラが箱を開けた時、最後に希望が残ったが、これこそ禍のなかでもっとも悪しきものである。希望は人間の苦痛を引き延ばすからである」と語っている。

 人は希望があるからこそ生きていける。しかし、希望とは未来の理想形のことであって、現在の苦境を直接的に改善するものではない。希望を持つということは、現在を耐え忍ぶということでもある。それが実現困難な希望である場合は特にそうである。すなわち、希望とは両刃の剣である。人を勇気づけることもあれば、人を失意の底に突き落とす可能性も秘めている。

 『ダークナイト』でバットマンとゴードン本部長が人々に与えた希望は、偽装工作によって作り出された偽りの希望である。彼らの嘘が暴かれたなら、ジョーカーの目論見通り、“人々の精神は完全に破壊される”だろう。これは危険な賭けである。偽りの希望によって作られた偽りの平和。彼らの選択は本当に“正しい”ものだったのか。その答えはゴッサムシティの闇に包まれたままである。

 

【レイチェルの愛】

   人生のあらゆる矛盾を解くものは愛である。
   《トルストイ

 『ダークナイト』のなかで、レイチェルはどんな意味を持っていたのだろう。答えは簡単。意味などない。

 この映画のなかでレイチェルは「愛」を象徴している。愛というのは現実世界においてもフィクションの世界においても、大きな役割を果たしている力である。人は愛によって癒され、愛によって幸福を手に入れる。しかし、『ダークナイト』におけるレイチェルの存在は、悲しいほどに何の意味も持っていない。

 ブルースとデントの間を揺れ動くレイチェルは、最終的にデントを選ぶ決断を下すが、その直後、あっけなく死を迎える。レイチェルの死は、愛という力ではブルースやデント(そしてゴッサムシティ)を救えないことを象徴している。いや、むしろ愛による救済を積極的に拒否しているようなところがある。「愛は地球を救う」かもしれない。しかし、愛はゴッサムシティを救うことはできない。

 映画の序盤で、ジョーカーがバットマンに正体を明かすように要求し、バットマンの格好をしてビジランテ活動をしていた若者ブライアンを殺害する場面がある。その後、ブルースは「これからはデントのような正義が必要だ」と考え、バットマンの引退を決意する。しかし、彼が自分の存在意義について深く悩むのは、レイチェルが死んだ後である。椅子に深く沈みこんだブルースがアルフレッドに対し「レイチェルが死んだのは私のせいなのか?」と問いかけるのは、あくまでもレイチェルが死んだ後である。少なくともブライアンが殺された時に深く悩んでいるような場面は描かれていない。

 要するに、親しい人間が傷ついてはじめてその痛みに気づいたということなのだろう。ブライアンが殺されたのはかわいそうだが自業自得であり、彼の「自己責任」だと割り切っていたのかもしれない。そして、愛する人を失った時にはじめて、自分の行動にともなう責任の重さを実感したのだろう。

 2004年にイラクで日本人人質事件が発生した時[*10]、世間には「自己責任」という奇妙な論理がまかり通っていた。ここで言う自己責任とは「殺されても仕方がない」と同義語である。一方では「人間の命は星よりも重い」と言いながら、一方では「自己責任」という人命軽視の論理がまかり通る。残念ながら、この矛盾を解決する決定的な方法を我々は持っていない。

 先ほどレイチェルという存在は何の意味も持っていないと書いたが、実は一つだけ意味がある。それはブルースを成長させるということである。映画やドラマなどでは、あるキャラクター(主人公)を精神的に成長させるために、別のキャラクターを殺すことがある。この場合、殺されるキャラは主人公を成長させるためだけに存在しているのであり、それ以外の存在意義はないに等しい。マンネリ化したシリーズ物に活気を与えるために、脚本家がよく使う手である。こうした傾向を、グリーンゴブリンに殺されたスパイダーマンの恋人グウェン・ステーシーにちなんで、グウェン・ステーシー・シンドロームと呼ぶこともある。

 「Green Lantern #54」(1994)で、主人公のカイル・レイナーが冷蔵庫のなかで恋人のアレックスのバラバラ死体を発見するというショッキングな場面がある(アメコミ史上でも、もっともグロテスクな場面の一つである)。脚本家のゲイル・シモーヌは、アメコミのなかで男性キャラクターを成長させるために女性キャラクターが“殺されたり、手足を切られたり、力を失ったり”する場合が多いことを憂慮し、「Women in Refrigerators」というサイトを立ち上げた[*11]。このサイトでは、脚本家の安易な女性蔑視思想により傷つけられた女性キャラクターの一覧を公開している。『Batman: the Killing Joke』で下半身不随となったバーバラ・ゴードンも、このリストに含まれている。アメコミではないが、『ダークナイト』におけるレイチェルもこの系譜につらなる存在だと言えよう。

 

【生か死か】

   神と悪魔が戦っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ。
   《ドストエフスキー

 『ダークナイト』のクライマックスで描かれた二つのフェリーの問題は、実にスリリングなシチュエーションだった。あの状況をふり返ってみよう。

 まず、フェリー事件の前段階として、病院爆破事件がある。ウェイン産業の顧問弁護士リースがバットマンの正体を暴露するとテレビで公言する。それを知ったジョーカーは、リースが出演しているテレビ番組に電話をかけて犯行予告をおこなう。「誰かが60分以内にリースを殺さなければ、市内のどこかの病院に仕掛けた爆弾を爆発させる」と。ここで比較されているのは、リース一人の命と、病院に入院している患者やスタッフ数百人の命である。しかも、どちらを選ぶかは市民の手にゆだねられている。この病院爆破事件が一応の解決を見た後、それをさらにスケールアップしたフェリー事件の幕が開く。

 ジョーカーはゴッサムシティの支配を宣言。自分のルールが気に入らない者は今すぐ街を出て行くように告げる。ただし、橋やトンネルには爆弾が仕掛けてあることを示唆する。市民はフェリーによる海上移動にたよらざるをえなくなる(※ゴッサムシティは基本的に“河口にできた島”である)。一方、ゴードン本部長は囚人をゴッサムシティに残しておくのは危険だと判断して、市内の刑務所で服役していた囚人をフェリーに乗せて優先的に退去させようとする。約500人の一般市民を乗せたフェリーと約800人の囚人を乗せたフェリーが出港した直後、両方のフェリーのエンジンが停止し、ジョーカーからの連絡がある。ジョーカーは深夜0時に両方のフェリーを爆破すると予告。ただし、それぞれのフェリーには相手のフェリーの起爆装置があり、起爆スイッチを入れて相手のフェリーを爆破させたほうは助けてやる。誰かが救命ボートで脱出しようとしたら、両方とも即刻爆破する、というもの。

 複数の人質が外部から隔離された密室状況(ビル・船・飛行機)に閉じこめられるというのは、サスペンス映画などでもしばしば登場するシチュエーションである。『ダイ・ハード』『沈黙の戦艦』『ザ・ロック』などがそうである。こうした作品においては、主人公が危機的状況に自ら飛びこんで人質を救出するというのが定番であり、観客は自分と主人公を重ね合わせる(同一化する)ことによってカタルシスを味わうことができる。

 しかし、『ダークナイト』では、そうした定石を否定する。二つの密室を作り出し、人質の運命をヒーローではなく人質自身に決めさせるという状況を作り出すことにより、観客はヒーローではなく人質と自分を同一化させて観る羽目になり、カタルシスどころか不安をかきたてられることになる。実にうまい演出である。

 「どちらの命を選ぶのか」という“究極の選択”形式のモラル問題は、倫理学の世界で提唱されている。いくつか紹介してみよう。

 《カルネアデスの板
 船が難破し、乗組員が海に投げ出される。一人の男が浮いていた板切れにつかまるが、別の男も同じ板切れにつかまろうとする。板切れには二人分の重量を支えるだけの浮力はなく、このままでは二人とも死亡すると考えた最初の男は、自分の身を守るために、後から来た男を突き飛ばして溺れさせてしまう。この男の行為は殺人だろうか?(※日本の場合、刑法三十七条の「緊急避難」に該当するため、男が殺人罪に問われることはない)

 《トロッコ問題
 一台のトロッコが暴走している。このまま進めば、線路A上にいる5人の人間に激突して即死させることは間違いない。一方、別の線路Bには1人の人間が立っている。あなたは線路の分岐点に立っていて、トロッコの進む軌道を変えることができる。あなたが大声を出しても彼らに届くことはない。あなたが何もしなければ5人が死ぬ。軌道を変更させれば犠牲者は1人で済む。さて、どうする?(※トロッコ問題はさまざまなバリエーションがある)

 《ザ・バイオリニスト
 世界的に有名なバイオリン奏者が致命的な病気にかかり昏睡状態に陥る。ただし、一つだけ治療法がある。それはあなたとバイオリン奏者の肉体を九ヶ月間接続することであり、それは世界でもあなた一人にしかできないことである。ある日、バイオリン奏者の熱烈なファンが眠っているあなたを誘拐し、強制的にバイオリン奏者の肉体と接続してしまう。気がついたあなたは接続をほどこうとするが、そうするとバイオリン奏者が死ぬことになると告げられる。さて、どうする?(※これは中絶問題の比喩である。あなた=妊婦がバイオリン奏者=胎児の生死の判断を下す資格があるかどうかということ)

 《臓器くじ
 公平なくじを使って一人の健康な人間を選んで殺す。その臓器をすべて摘出して、臓器移植が必要な患者に移植する。くじに当たった不幸な人間は死ぬが、それによって他の複数の人間が生存可能となる。これは倫理的に許される行為だろうか?

 これらは倫理学上の思考実験だが、フィクションの世界にも“究極の選択”をテーマにした作品は数多く存在する。一番わかりやすいのは、「タイムマシンで過去の世界に戻り、少年時代のヒトラーを殺すことは許されるか?」というものだろう(ここでは、ヒトラーを殺すことで歴史が変わり、自分が生まれなくなるとかタイムマシンが発明されなくなるといったタイム・パラドックスは無視する)。映画『タイムコップ2』では、ヒトラーを殺そうとした時間旅行者を射殺した時間警察官が、自分の行為に悩む場面がある。また、コメディ映画『最後の晩餐 平和主義者の連続殺人』でも、登場人物がこのテーマについて議論を交わす場面がある。アメコミの世界でも「Fantastic Four #291-292」において、過去の世界に戻ったニック・フューリーがヒトラーを殺そうとするエピソードがある。具体的な作品名は思い出せないが、これをテーマにした短編小説もあったと記憶している。

 「Superman #171」では、スーパーマンが“究極の選択”を迫られている。ロックとソーバンという異星人が「スーパーマンは人を殺すかどうか」で賭けをすることになる。ロックは惑星を破壊できるパワーを持っていることを示したうえで、スーパーマンに対し「24時間以内に誰かを殺せ。もし殺さなければ地球を破壊する」と通告する。スーパーマンはクリプトナイトを使って自殺を試みるが、異星人に阻止される。思い悩んだ挙げ句、怒りに我を忘れたスーパーマンはロックを殺そうとする。

 「Fantastic Four #242」では、マンハッタン島の住民を人質にした異星人テラックスが、ファンタスティック・フォーに対し「ギャラクタスを殺せ。さもなければ人質の命はない」と要求を突きつけている。

 最近では『ぼくらの』という作品が“究極の選択”をうまく表現している[*12]。これは中学生が巨大ロボットに乗って「敵」と戦うというストーリーだが、「敵」となるのは平行宇宙の地球人であり、相手が勝てば自分たちの地球が消滅、自分たちが勝てば相手の地球が消滅、しかも、たとえ勝利してもロボットの操縦者は死ななければならないという残酷なルールまでついている。こういう設定は、生命倫理を扱った作品のなかでもユニークなものだろう。

 これ以外にも、漫画好きなら浦沢直樹の『MONSTER』を思い浮かべるだろうし、SFファンなら『冷たい方程式』や『たったひとつの冴えたやりかた』の名前を挙げるだろう。いずれも生命倫理を扱った名作・秀作であり、一読する価値はあると思う。

 さて、フェリーの問題に戻ろう。映画では次のような展開を迎える。一般市民が乗ったフェリーでは、“民主的”な方法として、相手の船を爆破するかどうか投票をおこなうことにする。その結果は賛成340、反対196というもの。しかし、船長は起爆スイッチを押すのをためらう。見かねたビジネスマンが「それなら私がスイッチを押そう」と立候補するが、結局スイッチを押すことはできない。一方、囚人を乗せたフェリーでは、刺青をした不敵な面構えの囚人が船長に詰め寄り、「起爆スイッチを渡せ。お前が10分前にやるべきだったことを俺が代わりにやってやる」と告げ、船長から起爆スイッチを受け取ると、それを船の外へと投げ捨てる。

 きわめて性善説的な演出ではあるが、彼らが出した答えの是非は誰にも判断できまい。そもそも絶対に正しい答えなど存在しない。ビジネスマンの行動は責任の拒否であり、囚人の行動は責任の放棄である。自らの運命を神の手にゆだねた宗教的な決断だと見ることもできるし、ガンジーやキング牧師に代表されるような非暴力主義にもとづいた決断だと見ることもできる。いずれにしても消極的な決断であることに変わりはない。

 しかし、結果としてこれが彼らの命を救うことになる。深夜0時を過ぎても、どちらのフェリーも爆発しないことを知ったジョーカーの顔からは笑みが消える。まさにその瞬間、ジョーカーの「悪意」はゴッサムシティの市民の「決断」の前に敗北を喫する。実はこうした「消極的な決断」あるいは「悪に対する拒否」こそが、現代社会を生きる我々にとって重要な視点なのかもしれない。人が積極的に善行をなそうとする場合、それは時として正義の押し売りであったり、(違法行為をはたらくバットマンのように)他の人間にとっての悪となってしまうことがある。しかし、「正しいことをしよう」と積極的に考えるのではなく、「悪いことをしないようにしよう」と反転的に考えれば、独善的な正義に走ることもなく、反モラル的な悪に染まることもないだろう。

 近年、犯罪事件に巻きこまれた被害者のことを「victim」ではなく、「survivor」と呼ぶことがある。犯罪に巻きこまれ傷ついた弱者という観点ではなく、悲惨な事件を乗り越え今後の人生を歩む生還者という観点から、被害者をとらえた言葉である。アメリカ同時多発テロ事件モスクワ劇場占拠事件など、現実におきた悲惨な事件に巻きこまれた人々はたしかに被害者ではあるが、それと同時に、これからを生きる生還者でもある。『ダークナイト』でフェリーに乗っていた市民や囚人も生還者であり、彼らと自分を同一視していた我々観客も間接的な生還者である。フェリーに乗っていた500人の市民と800人の囚人は、あの事件の後、何を考え、どのような人生を歩んだのだろうか。彼ら生還者の人生のドラマにも興味をそそられるところである。

 

【命の重さ】

   他人の苦しみが分からない者は、人間の名に値しない。
   《サーディ(ペルシャの詩人 国連本部の門に刻まれた詩の一節)》

 フェリー問題について、いろいろなバリエーションを考えてみよう。たとえば以下のような状況だったとしたら、どういう判断が下されたであろうか。

・片方のフェリーに乗っているのが100人の政治家で、もう片方のフェリーに乗っているのが300人の囚人だった場合
 (政治家のほうが人間としての価値が高い?)

・1人の大統領と300人のホームレスだった場合
 (大統領のほうが社会的価値が高い?)

・100人の金持ちと100人の一般市民だった場合
 (金持ちのほうが人間としての価値が高い?)

・100人の金持ちと300人の孤児だった場合
 (金持ちのほうが社会的な価値が高い?)

・100人の兵士と100人の一般市民だった場合
 (兵士は国民のために命を捨てるのが当然?)

・100人のアメリカ兵士と100人のイラク兵士だった場合
 (イラク兵士は「敵」だから死んでもかまわない?)

・100人の健常者と200人の末期患者だった場合
 (末期患者はいずれ死ぬのだから別にかまわない?)

・100人の子供と200人の老人だった場合
 (老人は十分生きたのだから、未来のある子供を生かすべき?)

・100人の大人と100人の赤ん坊だった場合
 (2008年4月、瀬尾佳美という青山学院大学の准教授が光市母子殺害事件に関して、「赤ん坊は0.5人分の価値しかない」とブログで発言して世間の非難を浴びたが[*13]、こういう奇妙な価値観の持ち主は赤ん坊を殺すほうを選ぶのか?)

・100人の人間と300匹の猫だった場合
 (2006年8月、直木賞作家の坂東眞砂子日経新聞のコラムのなかで、独特の自論に基づいて子猫を殺していることを告白して動物愛護家の批判を浴びたが[*14]、こういう歪んだ価値観の持ち主はためらうことなく猫を殺すほうを選ぶのだろう)

・100人の人間と1000匹のペット(犬・猫)だった場合
 (ペットは家族同然なのだから、人間よりもペットを生かすのが正しい?)

・500人の人間と500頭のジャイアントパンダ絶滅危惧種)だった場合
 (1995年、中国で実際におきた事件だが、4人の農民が3頭のパンダを殺し、その皮をはいで香港で売りさばこうとした罪で逮捕された。中国の警察当局は主犯格だった2人に対し死刑判決を下した[*15]

 これらの思考実験には、唯一絶対の正解などない。全てはグレーゾーンのなかにある。ただ、自分の内的モラルがどこにあり、それは何を根拠にしたものなのかを考えておくことは、とても大切なことだと思う。

 

【ビジランテの現状】

   暴力がもたらすものは、一時的な勝利にすぎない。暴力は問題を解決するどころか、さらに多くの問題を作り出し、恒久的な平和をもたらすことはない。
   《キング牧師

 ビジランテ(vigilante)とはスペイン語で「見張る者(watchman)」を意味する。日本語では自警団員と訳されている。日本では、ビジランテやビジランティズムというのは耳慣れない言葉だが、その概念自体は決して新奇なものではない。ビジランテとは、警察や司法システムでは裁くことのできない悪人を、正当な手続きを経ることなく、自らの意思に基づいて処罰する個人もしくは集団のことである。人を殺すこともあれば殺さないこともある。報酬を受け取ることもあれば受け取らないこともある(前者の場合は暗殺者や用心棒に近い存在となる)。いわゆるアンチヒーローやダークヒーローとも重なる部分があるが、それらとは微妙に異なる。実例を挙げれば、漫画『マーダーライセンス牙』『ブラック・エンジェルズ』や、テレビドラマ『ザ・ハングマン』『必殺仕事人』などがビジランテに当たるだろう。

 ビジランテの起源は古く、中世イングランドにいたとされる義賊ロビン・フッドもビジランテの一人とみなされている。アメリカにおけるビジランティズムは16〜17 世紀の西部開拓・植民地時代に誕生したらしい。「自分の身は自分で守る」という発想がビジランティズムという行動へと発展したようだ。さらに言えば、こうした発想が現在の銃社会を築く一因になったとも言えるだろう。

 アメリカには、ビジランテの姿を描いたフィクションが数多く存在する。アメコミに登場するヒーローのほとんどはビジランテであり、映画『パニッシャー』『狼よさらば』『ストライク・ダウン』『ブレイブ ワン』、テレビドラマ『特攻野郎Aチーム』、パルプ雑誌『ザ・スパイダー』、小説『容赦なく』(トム・クランシー著)などはいずれもビジランテの正義を描いたものである。

 問題は、ビジランテの主張する“正義”に正当性があるかどうかである。白人至上主義で知られる悪名高きクー・クラックス・クランや、日本の調査捕鯨船に妨害工作をおこなう過激派自然保護団体シー・シェパードなども、ビジランティズムの一形態としてみなされている。つまり、ビジランテとテロリストの違いは紙一重になることもある。

 実際におきたビジランテ事件をいくつか紹介してみよう。

 「サブウェイ・ビジランテ」…1984年12月、ニューヨークの地下鉄に乗った男性バーナード・ゲッツが、4人の黒人グループから金をせびられ、持っていた拳銃で4人全員を撃つという事件がおきた。当時のニューヨークの地下鉄は治安状態が悪く、一日平均38件もの暴力沙汰がおきていた。この事件は市民に大きな衝撃を与え、バーナードは「サブウェイ・ビジランテ」と呼ばれることになった。バーナードは裁判にかけられるが、刑事裁判では1年間の懲役(執行猶予なし)という判決が下され、民事裁判では怪我を負わせた黒人に対し4300万ドルの慰謝料を支払うように命じられた(実際には払っていない)。

 「モンタナ自警委員会」…1863年12月、バージニアシティの近くにある金鉱キャンプ地で、ニコラス・タルボットというドイツ人の他殺死体が発見された。3人の容疑者が逮捕され、そのうちの一人で実行犯とされたジョージが絞首刑に処せられたが、ジョージは死刑執行の直前、自分は無実で真犯人は別の男だと言い残した。この事件の検事だったウィルバー・サンダースは真犯人を見つけだすために、仲間を集めて「モンタナ自警委員会」を結成した。ウィルバーたちはその後の2ヶ月間で22人(そのうちの一人は保安官)をリンチにかけ絞首刑にした。

 「ランボーもどき」…2000年、ジョナサン・アイデマという男性がアフガニスタンに入国し、多くのアフガニスタン国民をテロリストとして拘束した。ジョナサンはアメリカ合衆国の認可を受けていると自称していたが、2004年に逮捕され、10年間の懲役刑を受けたが、2007年に恩赦された。

 「北アイルランドの自警団」…北アイルランドで、刑務所から早期出所した小児性愛者が、黒衣の集団に拉致された。彼はナイフで刺され、獰猛な大型犬と一緒の車に閉じ込められ、犬にさんざん噛まれた後、道端に捨てられたものの、一命はとりとめた。

 「ビジランテ3人組」…2003年7月、少女に性的暴行を加えたとの噂があるマシュー・マレーが、3人の男性に襲われて重傷を負った。逮捕された3人の男には、それぞれ懲役12〜14年の判決が下された。

 「ハンプシャーのパンク魔」…2006年、イギリスのハンプシャー州で、20台以上の車のタイヤが切り裂かれる事件が発生した。現場には一枚のメモが残されており、そこにはこう書かれていた。「警告:お前は運転中に携帯電話を使用していた」(※日本と同じように、イギリスでも運転中の携帯電話の使用は法律で禁止されている)。

 「人違い放火」…2007年2月、アンドリュー・テイラーという男が、駐車中の車のなかにいたシェーン・ホイールハウスにガソリンをかけて放火した。シェーンは上半身にひどい火傷を負ったが一命はとりとめた。アンドリューはシェーンのことを麻薬の密売人だと勘違いしたらしい。アンドリューは殺人未遂罪で逮捕され、懲役24年の判決が下された。

 「福田村事件」…1923年、関東大震災がおきた直後に、千葉県の自警団員が差別的な感情から行商人を殺害した。

 アメリカにおけるビジランティズムとその周辺の現状をもう少しくわしく見てみよう。

 1964年3月、ニューヨーク在住のキティ・ジェノヴィーズという女性が自宅アパート前で暴漢に刺殺されるという事件がおこる。この事件が世間の注目を集めたのは、現場付近の住民38人が彼女の悲鳴を聞き、事件を目撃していたにもかかわらず、誰一人として救助に駆けつけることも警察に通報することすらしなかったからである(日本でも、2006年8月に特急電車のトイレ内で女性が強姦されたにもかかわらず、その車両にいた40人の乗客は事件を阻止することも車掌に連絡することもしなかったという電車内強姦事件がおきている[*16]。これらの事件の目撃者の心理は傍観者効果と呼ばれている)。

 ジェノヴィーズ事件の後、地元の住民が自警団を結成して、自分たちの近所の犯罪行為に目を光らせるようになった。その後、1972年に国家保安協会(National Sheriffs' Association)がアメリカ各地の自警団を体系化し、全国規模の近隣監視団(Neighborhood Watch)へと発展していくことになる[*17]

 現在、近隣監視団は大小あわせて7500グループあるのだが、政府はこの数を倍増させるため、200万ドルの予算を投入するそうだ。しかしながら、近隣監視団はビジランテ活動を推奨するものではない。近隣監視団のメンバーが犯罪現場を目撃した場合、すぐさま警察に通報するという規則になっている。

 また、アメリカ自由部隊(USA Freedom Corps)という組織もある[*18]。これはアメリカ同時多発テロ事件の直後に設立されたもので、合衆国大統領が委員長の座に就いている。アメリカ自由部隊の目的は、国家保安の理念に基づき、アメリカ国内及び国外におけるさまざまなボランティア活動を推進するというもの。別にテロとの戦いがメインとなっているわけではないが、その活動のなかには“国家にとって危険と思われる人物を見かけたら当局に報告する”というスパイめいた行動も含まれている。似たような組織に市民部隊(Citizen Corps)というのがあり[*19]、これは国土安全保障省Department of Homeland Security)の管理下にある。

 こうした動きは直接的にビジランティズムにつながるものではない。しかし、一旦「我々VS奴ら」という構造ができてしまうと、それは容易に「我々=正義 奴ら=悪」という公式へとすり替わってしまう。50年代の赤狩りのような事態が再現されないという保証はどこにもない。

 70年代にデニス・オニールニール・アダムスはスーパーヒーローコミックというジャンルのなかで、アメリカが抱える社会問題(ドラッグ、人種差別、公害、政治腐敗など)を描いて高い評価を得た[*20]。ここで描かれた問題は21世紀になった今も解決されておらず、むしろ深まったとも言える。世界は今でも人種偏見、宗教対立、経済格差、環境破壊に満ちあふれている。過去には過去の悪徳があり、現代には現代の悪徳がある。では、現代の正義、そして現代のビジランテとはどういう形であるべきなのか。その答えを出すことは容易ではない。

 

【現代の犯罪】

   暴力はむしろ道徳的なものである。それによって我々は48年かかってもできなかったことを、わずか48時間でやってのけたのだ。
   《ムッソリーニ

 犯罪研究家のコリン・ウィルソンの著作を読むと、いくつかのキーワードが出てくるが、そのなかに「欲求の階層」「確信人間」という概念がある。

 「欲求の階層」とは、もともと心理学者エイブラハム・マズローが提唱した概念である。マズローによると、人間が生存するために絶対に必要なのは「食べ物と飲み水」である。これが不足状態にあると、他のことは何もできない。これが充足されると、人間の欲求は第二階層へと移り、「安全に保護された環境」(暑さ寒さをしのげる家)を求めるようになる。これが充足されると、第三階層「愛、家族、親密な人間関係」へと移る。これも充足されると、第四階層「自尊心」を求めるようになる。そして最終的には、第五階層「自己実現」へと至るとされている。

 ウィルソンはこの概念を犯罪の動機と関連づけて説明している。つまり、18世紀以前には人間の生活は楽なものではなく、犯罪のほとんどは「食べ物と飲み水」を巡るものだった。人間は自分が生き延びるために、盗んだり他人を殺したりした。しかし、19世紀の中頃になると文明が発展し、人々は一定水準の生活を送れるようになった。19世紀末になると、基本的な欲求(食べ物と飲み水)による犯罪はほとんど無くなり、それに代わって、切り裂きジャックに代表されるような性犯罪が目立ち始める。さらに、1960年代以降は動機のない殺人事件が発生しているが、これは人間の意識が第四階層「自尊心」の段階にあるからだという。このようにウィルソンは「欲求の階層」と「犯罪の動機」がぴたりと重なるという。日本の犯罪心理学者の影山任佐も、現代の犯罪の特徴は性欲や物欲の「欠乏からの犯罪」ではなく、犯罪行為を通して空虚な自己を埋めようとする「自己確認型犯罪」が増えていると指摘している。

 一方、「確信人間(あるいは激発人間)」というのは、『宇宙船ビーグル号』で有名なSF作家A・E・ヴァン・ヴォクトが提示した概念である。これは「自分は常に正しい」という絶対的な信念を持った人間のことである。このタイプの人間は反省するということがなく、自分の間違いを指摘されると激昂する。彼らの頭のなかでは、自分は常に絶対に正しく、間違っているのは常に相手のほうである。しかも、動物行動学の研究により、20人に1人がこうした確信人間のタイプにあてはまるという調査結果もある。

 こうしたウィルソンの視点が必ずしも正しいとは断言できないが、かなり説得力があることは確かである。では、実際に現代の犯罪はどのような傾向を示しているのだろうか。

 テレビや新聞などのマスコミ報道のなかには、「凶悪犯罪が増加している」とか「少年犯罪が凶悪化している」といった論調で報じられるものも少なくない。しかし、『犯罪白書』などの統計データを見るかぎり、そうした主張を裏づける確固とした事実はないようだ。殺人事件の件数で言うと、ここ10年ほどは平均1300件前後で推移しており、他の諸外国と比較しても殺人事件の発生率は先進国のなかで一番低い。つまり、統計的に見るならば、日本は「安全」な国だということになる。

 とは言え、量的な側面ではなく、質的な側面(殺人の動機)には変化があるように思う(これもマスコミの煽り報道による事実誤認かもしれないが)。「いなくなればいいと思った」という短絡的な殺人や、「誰でもよかった」という無差別殺人、さらには「人を殺してみたかった」という純粋殺人[*21]にいたっては通常の感覚では理解不能であろう。

 殺人だけではない。児童虐待動物虐待。食品偽装[*22]にマンション耐震偽装。企業の脱税[*23]に政治家の汚職[*24]。警察官は買春し[*25]、裁判官はストーカー行為を働く。官僚は裏金を作り、マスコミは正義をふりかざして暴走する[*26]。断っておくが、これはゴッサムシティの話ではない。“今ここにある”日本の現実である。悪徳が欲しいのなら、フィクションの世界を探すまでもない。我々の目の前に悪徳は存在しており、我々の心のなかには悪徳の可能性が眠っているのだ。現代は誰もが被害者にも加害者にもなりうる時代である。だが、どちらになるかを選択するのは我々自身だ。

 ジョーカーはゴッサムシティの人々を堕落させようとした。では、すでに堕落した人々には何が残されているのだろう? 世界が(そして我々自身が)これ以上「ジョーカー化」しないことを願うばかりである。

 

【死刑という正義】

   殺人という犯罪は、犯罪であるのか否か。もし犯罪でなければ、なぜ犯罪でないものを罰する法律を作るのか。またもし犯罪であるなら、同じ犯罪行為によってそれを罰するのは、何と野蛮にして愚かな矛盾であろうか。
   《マルキ・ド・サド『閨房哲学』》

 水戸光圀(いわゆる水戸黄門)に、こんな逸話がある。ある時、自分の親を殺した男の裁きをすることになった。男は「あんなろくでなしの親を殺して何が悪い」と開き直る態度を見せる。光圀はすぐに男に処分を下すことなく、まず儒学の教えをほどこすことにする。男は熱心に儒学を学んだ後、「自分のしたことの重大さがよくわかりました。どうか死刑にしてください」と願い出る。光圀は迷いながらも、男の希望通りに死刑を下した。これが実話なのか、後世の人間によって作られた創作なのかは不明だが、殺人と死刑について考えさせられる話ではある。

 2008年6月、朝日新聞の夕刊のコラムで、法務大臣の鳩山邦夫を死神呼ばわりした文章が掲載され物議をかもした。刑事訴訟法によると、裁判所が死刑判決を出して、それが確定した場合、6ヶ月以内に刑を執行することが規定されている。死刑を含む現在の司法システムを作ったのは我々国民であり、刑事訴訟法を定めたのも法務大臣の職務内容を決めたのも国民自身である。法務大臣一人を悪者に仕立て上げるような無責任な文章は明らかにおかしい。もし死神と呼ばれるべき人間がいるとしたら、それは現在のシステムを築きあげた国民一人一人であるべきだ。2005年に法務大臣に就任した杉浦正健は、「自らの信念」にもとづいて死刑執行書の署名を拒否したらしいが、彼の行動は国民によって与えられた職責を果たしておらず、単なる職務怠慢にすぎない。そもそも一個人の「信念」で死刑執行の有無が決まるなら、最初から裁判などする必要がない。

 2007年8月、愛知県名古屋市で、帰宅途中の女性が闇サイトを通じて知り合った3人の男に拉致され惨殺されるという痛ましい事件(通称闇サイト殺人事件)がおきた。被害者の遺族はホームページのなかで、犯人の極刑を求める署名活動をおこなっている。事件から約1年が経ち、署名者の数は30万に達しようとしている。何の罪もない女性を一方的に殺害した犯人は、文字通り「人間のクズ」である。個人的には拷問を加えてから死刑にすればいいとすら思っている。極刑を求める署名書にサインした30万弱の人々は「死神」と呼ばれるべきなのだろうか。それとも、「正義の執行人」と呼ぶべきなのだろうか?

 その一方で、「犯人を処罰すること」と「犯人を死刑にすること」を分けて考える人たちもいる。松本サリン事件の被害者である河野義行さんは奥さんが亡くなった後でも、事件の張本人である麻原彰晃に対する死刑を望んでいないという。ごく少数ではあるが、殺人事件の被害者の遺族が加害者と交流を深めるケースもある。

 映画『スパイダーマン3』に、こんな場面がある。スパイダーマンことピーター・パーカーは、自分を育ててくれたベンおじさんを殺した真犯人フリント・マルコが刑務所から脱獄したことを知る。復讐心に燃えるピーターは、砂男サンドマンと化したマルコを下水道に追い詰めて倒す。その後、ピーターはメイおばさんに「スパイダーマンがマルコを退治した」ことを報告する。てっきりメイおばさんが喜んでくれるものと思いこんでいたピーターだが、メイおばさんは悲しげな表情を浮かべて、こう語る。「誰が死に値するかしないか、わたしたちにそれを決める資格はないと思うわ。ベンはとても大事な人だったわ。でも、ほんの一秒でも、わたしたちに復讐心など抱いてほしいとは思わなかったでしょう。復讐心は毒と同じ。邪悪で有害なものよ。わたしたちの心を乗っ取って、知らないうちに邪悪で醜いものに変えてしまう」[*27]

 メイおばさんは死刑反対主義者なのだろう。彼女が求めるものは「正義」であり、「復讐」ではない。だが、その境界線はどこにあるのか。正義を求めるという我々の願望は、基本的に報復の願望である。その二つを区別することは難しい。2009年5月からは裁判員制度がはじまる。人が人を裁くとはどういうことなのか、我々は本当に“正しい”方法で悪人を裁くことができるのか。こうした問いに対する絶対に正しい答えなど、どこにもない。

 

【終わりに】

   堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。
   《坂口安吾堕落論』》

 話を映画に戻そう。映画のラストで、ゴードンはこう語っている。「彼はゴッサムにふさわしいヒーローかもしれないが、今のゴッサムが必要としているヒーローではない」

 「彼」には夢がある。いつの日かゴッサムシティに平和が訪れ、人々が自分という存在を必要としなくなる日が来ることを願っている。その夢を実現するためなら、彼はどんなことでもする決意を固めている。より大きな正義のためなら、自ら進んで不正に手を染め、暴力的な手段に訴えることも辞さず、殺人者の汚名を着せられることすら厭わない。精神と肉体を極限まで鍛えあげ、恐怖をモチーフとしながらも、絶対に人を殺すことはしない信念の持ち主。清き心を持ちながら、闇の衣に身を包む男。

 その男の名は…ダークナイト。

 人殺しという汚名を着せられ、警察に追われながらも光に向かって進もうとするその孤独な背中は我々に対してこう語っているかのようだ。

 メメント・テネブレ。闇を忘れるな、と。

  

【注釈】
[1] 架空のキャラクター長者番付(2006年度)
[2] 小説『マイノリティ・リポート
  DVD『マイノリティ・リポート
[3] Panopticon
[4] 「私は監視されている」:監視社会が生む新しい精神疾患
[5] Original Comics Code
[6] 『ヒトは、こんなことで死んでしまうのか』 p109, P116
[7] 『訴えてやる!!! - ちょっとおかしなアメリカ訴訟事例集』 p303
[8] 『Batman: Arkham Asylum 15th Anniversary Edition
[9] 『Manhunter: Unleashed
[10] イラク日本人人質事件
[11] Women in Refrigerators公式サイト
[12] 漫画『ぼくらの (1)
   小説『ぼくらの〜alternative (1)
   DVD『ぼくらの DVD Vol.1
[13] 参考サイト1
   参考サイト2
[14] 参考サイト
[15] 『日本の刑罰は重いか軽いか』 p95
[16] 車内レイプしらんぷり 「沈黙」40人乗客の卑劣
[17] Neighborhood Watch公式サイト
[18] USA Freedom Corps公式サイト
   USA Freedom Corps公式サイト(児童向け)
[19] Citizen Corps公式サイト
[20] 『Green Lantern/Green Arrow vol.1
   『Green Lantern/Green Arrow vol.2
[21] 『人を殺してみたかった - 17歳の体験殺人!衝撃のルポルタージュ
[22] 食品偽装
[23] 企業による犯罪事件の一覧
[24] 汚職
[25] 警察不祥事
[26] マスコミ不祥事
[27] 『スパイダーマン3』 p246

  
【主な参考文献・推薦文献】
 
The Dark Knight script (pdf file)
Batman: the Greatest Stories Ever Told vol.1
Batman: the Greatest Stories Ever Told vol.2
the Joker: Greatest Stories Ever Told
Batman: the Man Who Laughs SC
Batman: Lovers and Madmen HC
Joker HC
Batman: Going Sane
Batman: Secrets
Batman: the Joker's Last Laugh
Batman and Philosophy: the Dark Knight of the Soul』 Mark D. White & Robert Arp (編)
Batman Unauthorized: Vigilantes, Jokers, and Heroes in Gotham City』 Dennis O'Neil (編)
the Psychology of Superheroes: An Unauthorized Exploration』 Robin S. Rosenberg (編)
Holy Superheroes! Revised and Expanded Edition』 Greg Garrett
 
ヒーローと正義』 白倉伸一郎
正義とは何か? - テレビ・マンガヒーローたちの正義学概論
平成19年版 犯罪被害者白書』 内閣府
現代の犯罪』 作田明
犯罪心理学 - 犯罪の原因をどこに求めるのか』 大渕憲一
犯罪被害者の声が聞こえますか (新潮文庫)』 東大作
なぜ被害者より加害者を助けるのか』 後藤啓二
話を、聞いてください - 少年犯罪被害当事者手記集』 少年犯罪被害当事者の会
殺された側の論理 - 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』 藤井誠二
少年に奪われた人生 - 犯罪被害者遺族の闘い』 藤井誠二
少年犯罪被害者遺族 (中公新書ラクレ)』 藤井誠二
人を殺してみたかった - 17歳の体験殺人!衝撃のルポルタージュ』 藤井誠二
17歳の殺人者 (朝日文庫)』 藤井誠二
少年にわが子を殺された親たち (文春文庫)』 黒沼克史
罪と罰、だが償いはどこに?』 中嶋博行
そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)』 日垣隆
狂気という隣人 - 精神科医の現場報告 (新潮文庫)』 岩波明
自閉症裁判 - レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』 佐藤幹夫
裁かれた罪 裁けなかった「こころ」 - 17歳の自閉症裁判』 佐藤幹夫
累犯障害者』 山本譲司
心にナイフをしのばせて』 奥野修司
 
人は何故、人を殺すのか - 若者らの罪悪感、反省心のない「器物破壊化」殺人の実態と背景を探る』 田代則春
良心をもたない人たち - 25人に1人という恐怖』 マーサ・スタウト
殺してやる - 止められない本能』 デヴィッド・M・バス
他人を見下す若者たち』 速水敏彦
オレ様化する子どもたち』 諏訪哲二
「心の傷」は言ったもん勝ち (新潮新書)』 中嶋聡
「私はうつ」と言いたがる人たち (PHP新書)』 香山リカ
被害者のトラウマとその支援』 藤森和美
犯罪被害者支援 - アメリカ最前線の支援システム』 新恵里
犯罪被害の体験をこえて - 生きる意味の再発見』 ハワード・ゼア
弟を殺した彼と、僕。』 原田正治
癒しと和解への旅 - 犯罪被害者と死刑囚の家族たち』 坂上香
いのち・未来へ - 理不尽に命を奪われた人たちからのメッセージ』 「生命のメッセージ展」実行委員会
STOP!自殺 - 世界と日本の取り組み』 本橋豊
自殺で遺された人たちのサポートガイド』 アン・スモーリン
友だちに「死にたい」といわれたとき、きみにできること』 リチャード・E・ネルソン
 
コリン・ウィルソンの犯罪コレクション (上)』 コリン・ウィルソン
コリン・ウィルソンの犯罪コレクション (下)』 コリン・ウィルソン
世界犯罪史』 コリン・ウィルソン
凶悪犯罪の歴史! (ぶんか社文庫)
20世紀にっぽん殺人事典』 福田洋
図説 現代殺人事件史 (ふくろうの本)』 福田洋
新・殺人百科データファイル (別冊歴史読本 6)』 日高恒太朗
犯罪心理学 (図解雑学)』 細江達郎
犯罪心理学 (雑学3分間ビジュアル図解シリーズ)
犯罪心理が面白いほどわかる本 (絵解き入門書)
面白いほどよくわかる犯罪心理学 (学校で教えない教科書)』 高橋良彰
 
動物の権利』 ピーター・シンガー
動物の権利 (1冊でわかる)』 デヴィッド・ドゥグラツィア
動物の命は人間より軽いのか - 世界最先端の動物保護思想』 マーク・ベコフ
アニマルウェルフェア - 動物の幸せについての科学と倫理』 佐藤衆介
隠された風景 - 死の現場を歩く』 福岡賢正
戦火のバグダッド動物園を救え - 知恵と勇気の復興物語』 ローレンス・アンソニー
おいしいハンバーガーのこわい話』 エリック・シュローサー
豚のPちゃんと32人の小学生 - 命の授業900日』 黒田恭史
「いのち」を食べる私たち - ニワトリを殺して食べる授業』 村井淳志
なぜウソをついちゃいけないの? - ゴットフリートおじさんの倫理教室』 ライナー・エアリンガー
 
虚夢』 薬丸岳
さまよう刃 (角川文庫)』 東野圭吾
償い (幻冬舎文庫)』 矢口敦子
そして粛清の扉を (新潮文庫)』 黒武洋
 
DVD『十二人の怒れる男
DVD『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル
DVD『ジョンQ-最後の決断-
DVD『息子のまなざし

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