ジョーカー レビュー

 映画を見て感じたこと、考えたことを自分なりに整理してレビューを書いてみる。ただし、自分のなかで消化できてない部分も多いので、あまり筋の通った文章ではないかもしれないことを最初に断っておく。

 

神様の冗談、それもあまり上手じゃない冗談を、神様と一緒になって笑ってあげるのが、神様を讃える一番いい方法じゃないかしら?
――サミュエル・ベケット 『しあわせな日々』第一幕

 

【ジョーカーという存在の耐えられない軽さ】 "A" Is for Abandoned

 映画を見てまず感じたのが、アーサー・フレックという男の希薄さである。彼は人(社会)との繋がりがほとんどない。
 まず、同性の友人がいない。学校が嫌いだったと語っているので、学生時代にも友人はいなかったのだろう。大人になった今でも、職場の同僚との付き合いはあまりないらしい(仕事が終わって一杯飲みに行こうというような場面はない)。当然のことながら、異性の友人もいない。彼はいわゆるインセル、あるいは少なくともインセルの予備軍なのだろう。
 またアーサーには、人生のロールモデルとなるような父親の存在がいなかった。父子の絆を重んじるアメリカ社会では、これはかなり重い意味を持っていただろう。その結果、彼は母親ペニーとの絆を強めることになる。これは『サイコ』のノーマン・ベイツを思わせる。
 アーサーの人生における父親の不在は、彼の核を脅かす実存的な不安となって現れることになる。彼は常に他者(特に父親像)からの「承認」を求めている。彼はコメディアンとして人気が出ることを夢見るだけでなく、テレビ番組の司会者マレー・フランクリンに認めてもらうという幻想を抱き、父親だと思い込んだトーマス・ウェインにハグを求める。アパートの隣人ソフィに恋愛妄想を抱くのも、純粋な恋愛感情というよりも、他者に受け入れられたいという承認欲求のほうが強いだろう。
 彼のそうした実存的な不安は、煙草によっても象徴されている。映画のなかで彼は頻繁に煙草をふかすが、あれは彼の弱さを視覚的に表現したものではないだろうか。酒・煙草・ドラッグといった中毒性のある娯楽に溺れる描写をすることで、その人の弱さや逃避的な性格を表現するというのはよくある手法だろう。酒やドラッグではなく、煙草を選んだのは、それがもっともチープなイメージを喚起するからか。
 彼の受動的な態度は、ジョーカーの命名の由来についてもあてはまる。ジョーカーという名称は、彼が自分でつけたものではない。マレーがつけたものを流用しただけである。マレーの番組に出演する際にも、過去に出演したタレントの登場シーンを研究して模倣しようとしている。アーサーは徹底的なまでに主体性を欠いている。
 けれど、人はいつか成長しなければならない。ノーマン・ベイツのような母子密着型生活から脱却しなければならない。アーサー自身もそれは理解していたはずである。映画の冒頭で登場したカウンセラー、隣人のソフィ、終盤で登場したカウンセラー(彼女は殺害されたことが暗示されている)の3人がすべて同じ性別の非白人なのは、決して偶然ではないだろう。彼女たちは、アーサーにとっては代理母だったと言える。彼は母親以外の話し相手、つまり社会との繋がりを必要としていた。アーサーが彼女たちに求めたのは社会との絆であり、それは同時に母親からの脱却も意味している。最終的にアーサーは母親殺しを実行することで、母親という呪縛から脱出する。
 (余談だが、アーサーが枕を使って母親を殺害する場面を見て、僕は『ベティ・ブルー』を思い出した。これは僕が大好きな映画の一つで、もしハーレイ・クインが普通の男性と恋に落ちたらどうなるのか、といった感じのダークな青春映画である。いわゆる鬱エンドなのだが、興味のある方は是非見てほしい。)

 

【現実世界へのメッセージ】 "B" Is for Breakdown

 『ジョーカー』の舞台は80年代初頭らしいが、映画のなかには現代にも通じる出来事が多く描かれている。アーサーが3人の男性を射殺するのは、1984年12月22日に発生したバーナード・ゲッツ事件(参考)を意識したものだろう。それ以外にも、ごみ収集業者のストライキによってゴミが街にあふれるというのは、ギリシャで実際にあったこと(参考)だし、警官による一般市民への発砲事件は枚挙にいとまがない。BBCの司会者が番組中に殺人を告白したこともあるし(参考)、1974年にはキャスターがニュース番組の生放送中に拳銃自殺したこともある(参考)。アーサーがふとしたきっかけでテレビ出演を果たすのは、現代のユーチューバーにも通じる現象であり、アンディ・ウォーホルの「将来は誰でも15分間だけ有名人になれるだろう」という言葉を想起させる。
 なによりも主人公アーサーの境遇は、現代では決して特殊なものではない。インセルという概念は基本的に白人男性のことを指すらしいが、自分の境遇に不満を抱く人は性別や人種や国籍に関係なく普遍的に存在するだろう。アーサーはどこにでもいる男である。そんなアーサーを変えることになるのは一丁の拳銃である。
 (ちなみに森村誠一の小説に『異形の白昼』というのがある。一丁のコルト45を手にした普通の人々の運命の変転を描いた連作短編であり、興味深いドラマが描かれている。現在は絶版になっているようなので、図書館等で探して読んでほしい。)
 映画のなかで、アーサーは何度か拳銃を自分に対して突きつけている。自分の頭に拳銃を押し当てて自撮りすることがカッコいいと勘違いしている若者もいるが、アーサーの場合は本気であり、単なるパフォーマンスとして簡単に片づけるわけにはいかない。“落ちこぼれ”である彼は、自分を認めてくれない世界を破壊したいと思うと同時に、自分自身を破壊したいという衝動にもかられている。自分という存在は生きている価値があるのか、この歪んだ世界は生きるに値するのか、これは自己意識の強い思春期の若者なら誰もが一度は通る道ではなかろうか。繰り返すが、アーサーはどこにでもいる男、我々の鏡像なのだ。

 

【ジョーカーの誕生】 "C" Is for Crazy

 ジョーカーというキャラの本質を一言で表現するとしたら、それは「狂気」ではなく、「誰にも理解できないこと」だと思っている。ジョーカーは化学の天才として描かれることもあれば、凶悪だが愚鈍な犯罪者として描かれることもある。決して筋肉質とは言えないスリムな体格でありながら、バットマンと対等に格闘戦を繰り広げることもある。あれは彼が肉体のリミッターを外しているからである。バットマンは古今東西の格闘技をマスターしていると言われるが、所詮それは人体を極限まで鍛えたというだけの話である。リミッターを外した男にとっては何の意味もない。
 けれど、ジョーカーの本質が「理解できないこと」だとしても、アーサー・フレックならば少しは理解できるかもしれない。映画『ジョーカー』では、アーサーは自分がトーマス・ウェインの息子(ブルースの兄)だと信じ込んでいた。コミックにおいても、精神的に歪んだブルースの兄(もしくは弟)が出てきたことがある。旧設定のトーマス・ウェイン・ジュニアや、反物質宇宙のオウルマンがそうであり、現設定のリンカーン・マーチは自分がブルースの弟だと信じ込んでいる。また、バットマンの宿敵のベインもブルースの異母弟ではないかというエピソードが掲載されたことがある。また、兄弟ではないが、「ジキル博士とハイド氏」を下敷きにした「Batman: Two Faces」というエルスワールド(異世界)の物語では、バットマンとジョーカーが同一人物だというストーリーが展開されていた。ただし、映画『ジョーカー』は完全にオリジナル・ストーリーであり、原案となるコミックはないらしいので、こうした点は気にしなくてもいいだろう。
 映画では、自分の出生の秘密を知ったアーサーは、自らのアイデンティティを完全に見失い、精神的にゲシュタルト崩壊をおこす。ジョーカーが誕生した瞬間である。ただし、彼が正気を失ったとか、狂気に陥ったという表現は不適切だろう(彼はもともと正気ではなかったのだから)。生(live)が悪(evil)であることを悟ったとも言えるが、美的なイメージを拝借するならば、M・C・エッシャーの「ドローイング・ハンド」、ルネ・マグリットの「白紙委任状」、サルバドール・ダリ「記憶の固執」といった絵画の世界に迷い込んだといったところか。ここでは、あえて文学的な表現を使おう。そう、彼は“ドーナツの穴”を発見したのだ。
 彼はこの世界がドーナツであること、その中心には虚無があることに気づいてしまったのだ。しかも、そのドーナツはただのドーナツではない。表も裏もなく、したがって正義と悪が簡単に入れ替わる「メビウスの輪」の形をしたドーナツ、あるいは自らの尻尾を食らう「ウロボロスの輪」の形をしたドーナツである。ドーナツはドーナツの穴を認識できないが(穴は存在していないので)、ドーナツの穴はドーナツを認識できる(穴は存在しているので)というパラドックスである。
 別のたとえを用いるならば、夜道を歩く時の月を思い出してほしい。我々が夜道を歩くと、月が一緒についてくることがある。もちろんこれは錯覚/認知の歪みであり、人間は月(ルナ)を認識することができるが、月は観察者のことなど気にしていない。月がついてくるというのは、人間の側の狂気(ルナ)に過ぎない。
 いずれにしても、アーサーは虚無を発見した。これが彼の悲劇であり、喜劇である。自らのアイデンティティを失った彼は、新たなアイデンティティを獲得しなければならない。彼は「リデレ・エルゴ・スム」(我笑う。ゆえに我あり)というテーゼを生み出すことで、虚人=ホモ・イナニス(homo inanis)あるいは狂人=ホモ・インサニス(homo insanis)として生まれ変わった。
 (「鏡の国のアリス」の第7章では、「誰もいません」(I see nobody.)というアリスに対して、王様が「わしもnobodyが見えるような目が欲しいのう」という場面があるが、それと似ているだろう。実体の不在、あるいは虚無の実在である。)
 (ちなみに、ジョン・レノンのナンセンス短編に「アラミンタ・ディッチ」というのがある。この話の主人公は、いつも笑ってばかりいる女――アーサーと同じような笑い病か?――である。彼女の奇癖に困った周囲の人が会議を開くのだが、彼女は逆に「周囲の人たちが笑い方を忘れたのよ」と言い放つ。)
 なお、映画のなかでアーサーは頻繁にダンスをする。このダンスが何を象徴しているのか今ひとつ理解できないのだが、もしかするとこのダンスは日常()から祝祭(ハレ)へと移行すること、ジョーカーが一種の呪術師となり、その橋渡し役となっていることを意味しているのかもしれない。

 

【個から集団へ】 "D" Is for Damned

 アーサーからジョーカーへの変貌は個人的な体験だが、それは個人の枠組みを超えて社会全体へと波及する。サイコティックな個人が、カオティックな社会を作り出すのだ。悲しい(sad)男が狂気(mad)となり、彼の過激な(rad)存在は社会にとっては悪(bad)かもしれないが、大衆に熱狂(fad)をもたらす。
 けれど、そこにはパッシブな絶望とアグレッシブな破壊しかない。既存の価値観や社会制度を破壊することはできても、新しい価値観を創造しているわけでは決してない。当たり前だが、何かを作り出すことには時間と労力がかかるが、何かを壊すことは簡単である。何千人もの奴隷が何十年もかけてピラミッドを作ったとしても、それを壊すのは悪意(動機)と爆弾(道具)があればいい。みんなで「公園をきれいにしましょう」と呼びかけても、たった一人の悪意を持った人物がゴミをバラ撒けば、それまでの努力は無に帰する。ネットで検索すれば、火炎瓶を作ることは小学生ですら可能だろう。現代のストレス社会を生きる人なら誰でも心の底に潜在的な不満が溜まっている。道具を手に入れるのも簡単だ。破壊にいたる道は、誰にでも用意されている。
 しかし、破壊するだけで、(再)創造しなければ、それはいつか自滅せざるをえない。それはガン細胞に似ている。ガン細胞は健康な細胞を侵食して、最終的には宿主である生命体そのものを滅ぼすが、それはガン細胞自身の死をも意味する。ある有機体が永続的に存在するためには呼気と吸気、つまり適度な破壊と(再)創造が必要となる。仮にジョーカーが既存の社会制度を破壊したとしても、彼が新しい(創造的な)価値観を提示しなければ、それは必然的に滅びる運命にある。破壊のみに明け暮れる世界は空っぽの王国であり、ジョーカーは空っぽの国民に囲まれ、空っぽの王座に座る空っぽの王様である。
 (シェイクスピアの『リア王』の四幕一場には、「狂人が盲人の手を引く。今の乱れた世の中には、それがふさわしいだろう」という台詞が出てくる。)

 

【本質から仮面へ、あるいは仮面から本質へ】 "E" Is for Empty

 アメコミの世界においては、マスクはオプションだが、コスチュームはほぼ必須のアイテムとなる。マスクをしていないヒーローやヴィランは多いが、コスチュームを着ていないキャラは数えるほどしかいない(たとえば7代目スターマンなど)。ヴィランの場合、すでに逮捕されて素顔も本名もバレバレなのだから、わざわざマスクをかぶる必要はないのだが、それでも彼らはマスクやコスチュームにこだわる。それはマスク、特にコスチュームが彼らのアイデンティティを示す記号だからだ。
 独特のカラフルなコスチュームを着ることで、彼らは自分がヒーローあるいはヴィランであることを一目で認知できるように世間の人々にアピールしている。ごく普通の私服を着て街を歩いていても誰も見向きもしないが、漫画やアニメのキャラのコスプレした途端に周囲の注目を集めるコスプレイヤーに似ているとも言える。
 ジョーカーも同じである。アーサーは「アーサー」という普通人のアイデンティティを捨てて「ジョーカー」というアイデンティティを手に入れた時に初めて世間から認められ、反社会の象徴というカリスマとして祭り上げられるとともに、この世界における自分の居場所を見つけることができた。
 それなら、アーサー/ジョーカーにとって、本当の自分とはどちらなのだろう? アーサーという空っぽの存在なのか、それとも世間の人が期待しているジョーカーという仮面なのか? そもそも“本当の自分”などというものが存在するのか? 表層と深層を切り離すという考え方自体に意味はあるのか?

 

【現実とフィクションの間で】 "F" Is for Fanatic

 個人的にはジョーカーは好きなキャラの一人だが、彼に共感や魅力を感じたことは一度もない。けれど、世間には彼のようなシリアルキラー(連続殺人鬼)やマスマーダラー(大量殺人鬼)に魅力を感じる人々が一定数いるようだ。もっとも、そうした人々にしても、自分の日常や現実を脅かす身近な存在としてではなく、日常と非日常の境界線上の存在、かぎりなくフィクションに近いリアル、“世界のどこかで実際におきた事件だけれど、自分とは縁遠い脅威”として楽しんでいるようだ。娯楽としてホラー映画を見る感覚に近いだろうか。
 当たり前の話ではある。自分のすぐ身近に殺人鬼がいたらたまったものではない。ジョーカーは自分勝手な理由で無差別に人を殺す。フィクションならば楽しめるかもしれないが、たとえば自分勝手な動機で京アニに放火した容疑者に対して共感する人はあまりいないだろう。けれど、相模原障害者施設殺傷事件の被告に対しては、(匿名の)少数の賛同者が存在することも事実である。悪のカリスマに魅力を感じる人も多いのだ。そうした暗い側面から目を逸らすこともできない。
 たとえば、「Serial Killer Groupies」という本では、連続殺人鬼に興味を持つ女性の心理を以下の9つに分類している。
 
1) 救済幻想……自分がこの人を救わねばならないという心理。
2) 完璧な恋人……刑務所にいる恋人は、決して浮気をすることがないので安心感を得られる。
3) 母性愛……犯罪者を精神的に未熟な子供と見なして、守ろうとする心理。
4) ドラマ……退屈な日常のなかでドラマチックな出来事を求める気持ち。
5) 犯罪性愛……犯罪者に対して性的興奮を得る性癖のこと。
6) 父性に対する思慕……父親の愛情が不足していた環境で育った女性は、犯罪者から疑似的な愛情を得ようとする場合がある。
7) 自尊心の満足……劣等感の強い女性は普通の男性と交際することに不安を抱えており、その代償として犯罪者を恋愛対象に選ぶ場合がある。
8) 自己顕示欲……マスコミが注目している有名な犯罪者に接近することで、自分にも注目を集めさせることができる。
9) 「美女と野獣」症候群……あえて犯罪者に近づくことでスリルを味わおうとする感情。
 
 無論、女性だけに限った話ではない。我々の中にはジョーカーを、悪を求める心理が頑として存在するのである。

 

【被害者は弱者にあらず】 "G" Is for Grotesque

 最近「ファーストクラスに行きたいと暴れる自閉症の男の子」のニュースがあった。弱者や少数派を思いやる世界は、やさしい世界である。けれども、現代社会に蔓延しているのは“やさしさ”よりも、むしろ“不寛容”だと思う。
 一番わかりやすいのはクレーマーだろう。彼らは常に怒り、ヒステリックに喚き立て、自分が被害者であることを声高にアピールする。しかしながら、怒っている人が常に正義だとは限らない。正当な理由のある義憤ではなく、手前勝手な私憤であることも多い。
 最近は“被害者の仮面をかぶった加害者”が多いような気がする。彼らは意識的あるいは無意識的に“被害者”というレッテルを自分に貼りつけ、相対的に相手を“加害者”の立場に追い込むことで、「被害者=正義、加害者=悪」という構図を作り出し、「私を傷つけるなんて許せない! 謝れ! 謝れ!」とヒステリックに喚き立てる。こういう人たちは、被害者のアンテナの感度は鋭いけれど、加害者のアンテナの感度は極めて鈍いので、自分の発言や行動がどれほど相手を傷つけているかということには気づかない。
 映画の終盤、ピエロのマスクをかぶった男(ジョー・チル?)が、「報いを受けろ」という言葉とともにウェイン夫妻を射殺する。射殺犯は自らの行為にもかかわらず、自分のことを被害者だと思い込んでいるのだろう。では、“報い”を受けたウェイン夫妻の“罪”とは何か? 金持ちであることが“罪”になるのか? 市長に立候補していたトーマス・ウェインは「自分こそが、この街を救える唯一の希望だ」と語っていた。ゴッサムの状況と彼の人格を考えれば、彼の言葉こそが真実ではないかと思われる。“持たざる者”が“持つ者”に対して抱くルサンチマンが、常に正義になるとは限らない。
 たしかに被害者は存在する。彼らが感じる痛みも本物である。けれど、被害者になることは、自動的に「加害者を攻撃・否定する権利」を与えるものではなかろう。数年前の「保育園落ちた日本死ね」も同様の構図だと思われる。発言者の痛みは理解できる。けれど、もし発言者が保育園の枠組みに受かっていたら(勝ち組になっていたら)、発言者はこうしたブログを書かなかった、つまり問題提起をしなかっただろう。“私”が落ちたから、“日本死ね”というクレームが出てくる。本当に“正しいこと”がしたいのであれば、保育園に受かる/落ちる「前」に、問題提起をすべきだろう。
 “私”が気に入った価値観は認めるけれど、“私”が気に入らない価値観は認めないという不完全なダイバーシティ。弱者あるいは万人にとっての正義を語っているように見せかけながら、実際には自分にとって都合のいい社会を作りたいだけという“正義の仮面”をかぶった人はたくさんいる。大上段に振りかぶって正義を語るよりも、自分のことを棚に上げて、他人をバカにしたり揚げ足を取るほうが楽なのだろう。
 人間には他人のミスや欠点を見つけると それがどんなにささいなものであろうと指摘したがる“本能”があるので、ある程度は仕方ないだう(←これもそう。“だろう”と書くべきところを“だう”と書いたのだが、こういうのを見つけると、人はわざわざ時間と労力を費やして相手に指摘したり、あるいはツイッターなどで晒したりする。それは“正しいこと”がしたいというよりも、相手を小バカにして優越感に浸りたいという気持ちのほうが強いはずだ)。

 

【我々が狂気について語る時に語ること】 "H" Is for Hollow

 我々が悪や狂気について語る時、それはほとんど常に「他者の問題」として語られる。「向こうが悪い」「あいつが狂っている」といった具合である。アーサーも映画のなかで「狂っているのは僕か? 世間か?」と問うていた。
 けれど、それはむしろ「私の問題」として語るべきなのではないか。生きるということは、被害者になるよりも、(不本意な)加害者になることのほうが多いように思う。ほとんどの人は他の動物の命を奪って生きているのであり、たとえヴィーガンであったとしても、100%誰も傷つけずに生きることなど不可能だろう。ジョーカーを悪のカリスマとして称えるのは勝手だが、それは我々が本質的に抱えている悪を投影しているだけではないのか? 我々は悪を、狂気を、ジョーカーを外部の問題として処理するのではなく、内部の問題として処理すべきなのだ。
 その方法はいろいろある。哲学や倫理学といった形而上学的な手法を使うのもいいだろう。ただし、個人的にはそうしたインテリによるハイブローなアプローチは少し違うのではないかという気がする。理由は二つある。一つはジョーカーがアメコミというサブカルチャー出身のキャラであること。サブカルのキャラを形而上学的に分析するなとは言わないが、やはりサブカルにはサブカルに見合った手法があるように思う。もう一つの理由は、そうしたハイブローなアプローチには「痛み」が伴っていないこと。悪を語るとは、悪の行為を語ることであり、当然そこには心理的・身体的な痛みが伴うはずである。刑事事件の裁判などでは、被害者遺族の感情を無視して、犯行事実だけを淡々と扱うことが求められることもあるが、そうした痛みを伴わない裁きにどれほどの意味があるのか疑問である。

 

【この世界から悪を完全に排除することは可能か?】 "I" Is for Insanity

 結論から言えば不可能である。できるわけがない。しかし、それではあまりにも救いがなさすぎるので、少しでも悪を減らす方法を考えてみよう。
 DCヒーローを題材にして考えてみる。平面上に直交座標系を設定し、X軸を「外見の正義-悪」、Y軸を「心の中の正義-悪」と定義してみる。そうすると、スーパーマンは第一象限(外見も心も正義)、バットマンは第ニ象限(外見は悪っぽいが正義)、ジョーカーは第三象限(外見も中身も悪)、レックス・ルーサーは第四象限(外見は誠実そうだが実は悪)に位置することになる。

 ジョーカーの宿敵はバットマンだが、実はバットマンは犯罪が発生した後にジョーカーを逮捕するだけの“対応策”にすぎず、犯罪が発生する前の“抑止力”にはなりえない。ジョーカーの悪に対して抑止力になりうるのは、X軸の線対称に位置するバットマンではなく、原点の点対称に位置するスーパーマンである。
 スーパーマンとジョーカーが絡むエピソードもいくつか存在するが(たとえば「スーパーマン:エンペラー・ジョーカー」や「Adventures of Superman #40」)、そうした点が掘り下げられているとは言い難い。やはりバットマンと絡めたほうが物語としてはおもしろいのかもしれない。いずれにしても、ジョーカーの悪に対する抑止力となるのは、バットマンの行為功利主義的な正義ではなく、スーパーマンの希望ではないかと思う。
 スーパーマン(クラーク・ケント)やスパイダーマン(ピーター・パーカー)の誕生秘話を思い出してほしい。クラークもピーターもどちらも幼い頃に実の両親を失っており、決して理想的な環境だったとは言い難い。いじめられっ子で非モテ男子だったピーターの場合は、アーサー・フレックに近いと言えるだろう。それでも、社会を変える力を手に入れた時にクラークやピーターはヒーローとなる道を選び、アーサーはヴィランとなった。両者を隔てる違いは「愛」そして「希望」があったかどうかである。悪の力は強い。けれど、愛や希望の力も同じくらいに強いのである。

 

【底なしの空虚を埋めるという行為】 "J" Is for Joker

 上記の項目で、ジョーカーの本質は「理解できないこと」だと書いた。理解できないものを語ることはできない。哲学者のウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」と語っているし、冒頭で引用した劇作家のサミュエル・ベケットも『ワット』補遺で「象徴の意図されざるところに象徴を見るものに禍あれ」と警告している。
 それでも、あえて悪を、狂気を、ジョーカーを自らに内在する問題として問うてみたい。古今東西、悪や狂気について書かれた書物は数多い。小説や漫画や哲学書だけではない。アニメや映画にも、重要な示唆を含んだ作品はたくさんあるだろう。このレビューを読んだ人たちにも、自分の頭で考え、自分の言葉で悪を語ってほしいと思う。
 それが悪から身を遠ざけるのに有効な方法であり、同時に“知”の理想形だと思うからだ。理系の学者はそうでもないが、文系の学者は「先人の知を受け継いで、次世代に受け渡す」という意識に欠けている人が多いような気がする。知とは共有するものである。そうしなければ、社会が向上することはない。知識の自慢ごっこや討論もどきの怒鳴りあいといったワイドショー型の知では、いつまで経っても問題が解決することはないだろう。
 我々は「メメント・モリ」(死を思え)と同様に、「メメント・インサニス」(狂気を思え)という標語を掲げ、それを自らの命題として問い続けるべきなのだ。内なるジョーカーと向き合うだけの覚悟を持つことが必要なのだ。それは「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」と同じくらいに難しい行為かもしれない。それでも我々は悪の蔓延を防ぐために、ジョーカーという呪いから逃れるために、世界の中心にぽっかりと空いた穴を埋める行為を続けなければならないのだ。
 もしも我らが歌ならば、我らのハーモニーで大地を満たすしかない。もしも我らが星ならば、我らの光で夜空を満たすしかない。我々はジョーカーの意味を模索することで、自分が生きる意味や存在理由を見出し、世界の中心にある虚無を埋めるしかないのだ。この狂気のワンダーランドで。

 

〜ジョーカー関連の書籍〜
ジョーカー アンソロジー
バットマン:キリングジョーク 完全版
ジョーカー [新装版]
ジョーカー:ラスト・ラフ
スーパーマン:エンペラー・ジョーカー
Joker: 80 Years of the Clown Prince of Crime HC
Joker: Bronze Age Omnibus HC
Joker: Clown Prince of Crime
Joker: His Greatest Jokes
Joker Psychology: Evil Clowns and the Women Who Love Them
Joker: Serious Study of the Clown Prince of Crime
Joker: Visual History of the Clown Prince of Crime

トップページに戻る

inserted by FC2 system