コラム 〜アラン・ムーアについて〜

【はじめに】

 その男は明らかに他の人間とは違うオーラを放っている。ぼさぼさの頭髪はもう何ヶ月も手入れされていないように見えるし、伸び放題の口ひげと顎ひげが顔の下半分を覆い隠している。やや落ちくぼんだ眼窩からは、何かに飢えたような鋭い光を放つ二つの瞳がこちらを見つめている。ファンタジー映画ならば、世界支配を目論む悪の魔法使いか森の奥に住む世捨て人、サスペンス映画ならば、怪しいホームレスか新興宗教の教祖といった感じの風貌。ペンよりも、ナイフを持たせたほうがしっくりくるような人物。間違っても人気のない深夜の路地裏で出会いたいとは思わない人物。しかし、多くの人が彼を「天才」と呼び、なかには「神」と称してはばからないものすら存在する。彼の名はアラン・ムーア。英米コミック界における巨匠中の巨匠である。

 映画「ウォッチメン」「フロム・ヘル」「リーグ・オブ・レジェンド 〜時空を超えた戦い〜」「V フォー・ヴェンデッタ」は、このアラン・ムーアの原作をもとにしたものである。それでは、このアラン・ムーアとは一体どんな人物なのか、順を追って見ていこう。

 

【アラン・ムーアの経歴】

 アラン・ムーアは、1953年11月18日、イギリスのノーサンプトンで、父アーネストと母シルビアの間に長男として生まれる。父はビール製造会社、母は印刷会社に勤めており、その生活は決して楽なものではなかった。ムーアは中学時代に退学処分を受け、それ以後、学校には行っていない。

 1971年頃(ムーア18歳)、友人とともに『EMBRYO』という同人誌を作成する。

 1974年(21歳)、妻フィリスと結婚し、その後二人の娘をもうける。

 1979年(26歳)、『SOUNDS』という音楽週刊誌で漫画家としてデビューする。

 その後、ライターに転向したムーアは、『DOCTOR WHO WEEKLY』や『2000 A.D.』といった雑誌に作品を発表するようになる。

 1982年(29歳)、『WARRIOR』というアンソロジー雑誌で「Marvelman」と「V For Vendetta」の連載を開始する。

 1983年(30歳)、DCコミックスの『Saga of the Swamp Thing』のライターに就任する。これがムーアのアメリカ・デビュー作となる。

 1985年(32歳)、『Watchmen』を発表。

 1988年(35歳)、『Batman: the Killing Joke』を発表。

 その後、大手コミック出版社の方針に反発を覚えたムーアは、Mad Love Publishingという会社を設立。

 1989年(36歳)、『From Hell』の連載開始。

 1993年(40歳)、活動の場をイメージ・コミックスに移し、さまざまな若手アーティストたちと組んで、ヒーロー物のコミックを手がける。

 トッド・マクファーレンらと組んで、『Spawn: Blood Feud』『Violator』等を発表。

 ジム・リーらと組んで、『Wild C.A.T.S.』『Voodoo』『Spawn/Wild C.A.T.S.』等を発表。

 ロブ・ライフェルドらと組んで、『1963』『Violator vs. Badrock』『Supreme』『Judgement Day』『Youngblood』『Glory』等を発表。なかでも、『Supreme』は高い評価を受ける。

 1996年(43歳)、初の小説『Voice of the Fire』を発表。

 1999年(46歳)、自主レーベル「America's Best Comics」(通称ABC)を立ち上げ、作風の違う作品を精力的に発表し続けている。

 2003年(50歳)、コミック業界からの“引退”を表明。今後はマジシャンとして活動を続ける予定。

 

【「フロム・ヘル」について】

 「フロム・ヘル」は、アラン・ムーア(ライター)とエディー・キャンベル(アーティスト)が足かけ10年の歳月をかけて完成させた大作であり、世界でもっとも有名な連続殺人鬼=切り裂きジャックをテーマにしたものである。ここで切り裂きジャックに関して、少し説明を加えておこう。

 切り裂きジャックとは、1888年8月31日から同年11月9日にかけて、少なくとも5人の娼婦を殺害し、当時のロンドンを恐怖のどん底に突き落とした史上初の連続殺人鬼である(切り裂きジャックの犯行についてはさまざまな異説があり、正確な犠牲者の数はわかっていないが、一般的には5人であると言われている)。スコットランド・ヤードの必死の捜査にもかかわらず、犯人は逮捕されておらず、事件から1世紀が経過した現在でも、真相は謎に包まれたままである。つい数年前にも『切り裂きジャックの日記』(同朋社出版)なるものが発見され、その真偽を巡って物議がかもされたほどである。こうした永遠に解けないミステリーほど、人間の好奇心をそそるものはないらしく、多くの人間が切り裂きジャックの正体についてさまざまな仮説を立ててきた。それらの仮説に登場する容疑者の数を合計すると、実に100人以上になるという。英国の社会学者/哲学者/オカルト研究家のコリン・ウィルソンは、こうした切り裂きジャックに関する研究を“リッパロロジー”、その研究者を“リッパロロジスト”と名づけたほどである。『一八八八切り裂きジャック』(服部まゆみ)や『ルチフェロ』(篠田真由美)といった、日本人の手による小説も発売されている。

 英国人であるアラン・ムーアが、この切り裂きジャックというイギリス犯罪史上最大のミステリーに取り組んだのは、ある意味、必然であったと言えよう。ムーアはこの作品のなかで、切り裂きジャックの正体を王室侍医のウィリアム・ガルであるとしているが、これは別にムーアのオリジナルではなく、過去に挙げられた仮説の一つにすぎない。基本的には1976年にスティーヴン・ナイトが著した『切り裂きジャック最終結論』(成甲書房)という書物の内容を下敷きにして、自らの切り裂きジャック像を組み立てたにすぎない。しかも、同書に書かれていることは信憑性にとぼしく、これが切り裂きジャック事件の「真相」であるとは言いがたい。

 しかし、特筆すべきは、その徹底した時代考証の確かさにある。ムーアは切り裂きジャックに関する膨大な資料を丹念に調べあげ、100人に及ぶ登場人物はもとより、言葉・服装・風俗・その他小物にいたるまで、19世紀末のロンドンの風景を完璧なまでに再現し、当時の事件の顛末を見事に描写してみせた。その点において、この「フロム・ヘル」は限りなく事実に近い創作であると言えよう。これまでにも切り裂きジャックをテーマにした作品(小説や映画)は存在したが、これほどまでに史実に忠実に作られた作品はないであろう。

 さらに、「フロム・ヘル」は単純なホラーではない。ムーアはウィリアム・ガルを切り裂きジャックとして見立てたが、それと同時に、ガルという存在を超自然的なものへと昇華させている。ネタばれになってしまうので、くわしい説明は避けるが、物語のラストでガルは時空を越えて、現代社会で暮らす我々に対してメッセージを送ってくる。ここにおいて、ホラーは一変して哲学へと変わる。殺人という大罪を犯したガルが最後に手に入れたものとは一体何だったのか? その答えは読者の心に忘れ得ぬ余韻を残すことだろう。

 ただし、残念なことに、コミック版「フロム・ヘル」を読了するには、相当の根気を必要とする。なにしろ、本文477ページ+解説66ページという電話帳なみの分厚さを誇っているのだ。しかも、数え切れないほど多くの人物が、入れ替わり立ち替わり登場するのである。切り裂きジャック事件や当時のロンドンに関する予備知識がなければ、読み進めること自体が困難であろう。それでも読んでみたいという方は、まず最初に市販の切り裂きジャック研究書に目を通してから読んだほうがいいだろう。お薦めは、リッパロロジストであり翻訳家でもある仁賀克雄氏の『新・ロンドンの恐怖−切り裂きジャックの犯行と新事実』(原書房)や『図説切り裂きジャック』(河出書房新社 ふくろうの本)などである。

 なお、「フロム・ヘル」は1993年度アイズナー賞(Best Serialized Story部門)、2000年度アイズナー賞(Best Graphic Album: Reprint部門)、2000年度ハーベイ賞(Best Graphic Album of Previously Published Work部門)をそれぞれ受賞している。

 

【コミックと映画の違い】

 映画「フロム・ヘル」はコミックをもとにして作られたものではあるが、その内容は大きく異なっている。コミックでは切り裂きジャック本人を主人公に据えているが、映画では切り裂きジャック事件を捜査する警部が主人公となり、ラブロマンスをからめたホラーサスペンスに仕上がっている。映画は映画、コミックはコミックとして、それぞれ別物として楽しんだ方がいいかもしれない。

 

【その他のコミック作品について】

 アラン・ムーアのその他の作品については、こちらをご覧ください。

 なお、作品ではなく、アラン・ムーア個人に対しては以下の賞が贈られている。

 英国イーグル賞 Best Comics Writer部門(1982年度、1983年度)
 カービー賞 Best Writer部門(1985年度、1986年度、1987年度)
 アイズナー賞 Best Writer部門(1988年度、1989年度、1995年度、1996年度、1997年度、2000年度、2001年度)
 ハーベイ賞 Best Writer部門(1988年度、1996年度、1999年度、2000年度、2001年度)

 

【日本語で読めるムーア作品リスト】

ウォッチメン
トップ10 #1
トップ10 #2
フロム・ヘル (上)
フロム・ヘル (下)
バットマン:キリングジョーク
リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン
続リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン
V フォー・ヴェンデッタ
・ウォッチメン
・スポーン(3)
・スポーン(12)
・スポーン ブラッドフュード
・バイオレーター
・ワイルドキャッツ(9)〜(12)
・ジェン サーティーン(10)

 

【より深く知りたい人のために】

アラン・ムーアに関するノンフィクション
Alan Moore: Portrait of an Extraordinary Gentleman
the Extraordinary Works of Alan Moore: Indispensable Edition
Alan Moore: Comics As Performance, Fiction As Scalpel SC
Alan Moore on His Work and Career HC
Alan Moore (Pocket Essential Series)

・熱烈なファンの手によるアラン・ムーアのファンサイトが運営中。アドレスはhttp://www.alanmoorefansite.com/

・「Wizard the Comics Magazine #107」(2000年8月号)には、アラン・ムーアが担当した全てのコミックのチェックリストが掲載されている。

 

【最後に】

 果たしてアラン・ムーアは、一部の熱狂的なファンが言うとおり、「神」なのだろうか? 答えは否である。アラン・ムーアは人間である。ただし、他の者よりも、はるかに誠実で、不器用で、勇気を持った人間である。ムーアがこれまでの作品で描き続けてきたのは、個人と社会との関係、別の言葉で言えば、人間という存在の不確かさと現代社会が抱える不安定さであった。「人間とは何か?」 この問いに対して、さまざまな哲学者や宗教家が答えをだそうとしてきたが、明確な答えを手にしたものはいない。そもそも、答えなど存在しないのだ。我々は安定した社会基盤の上で安全な日常生活を送っていると思い込んでいるが、それらは暗黙のうちに作られた共同幻想にすぎない。我々は世界の本当の姿を直視する勇気がないために、自分の見たいものだけを見て聞きたいことだけを聞きながら、「日常」という虚構のなかで生きている存在なのだ。真実から目をそむけ続ければ、安楽に生きることはできるだろう。しかし、ムーアはそれを拒絶した。痛みに耐えながら、世界のありのままの姿を直視し続けた。そして、哲学や宗教というメディアではなく、コミックというメディアを通して、我々が無意識のうちに目を逸らし続けてきた真実−人間というものがいかに不確かで、それを取り巻く世界がいかに不安定なものであるか−を教えてくれた。ムーアは神ではない。明確なビジョンを持った伝道師なのだ。

 とは言え、ムーアの作品が非常に難解なものであり、一般の読者を受けつけないような閉鎖性を持っているわけではない。たしかにムーアの作品には“重い”ものが多い。けれど、近年のABCレーベルで発表された作品を見てもわかる通り、ムーアはバラエティに富んだ作品を作り出す一流のエンターテイナーでもある。シリアスからユーモアまで作風の違うコミックを同時進行させながら、そのクオリティを維持できるというのは、正に名人芸と言えるだろう。今後ムーアがどのような作品を発表するかは神のみぞ知るだが、決して読者の期待を裏切るようなことはないと断言できる。80年代にコミック業界を根底から覆したムーアは、21世紀になっても、また新しいビジョンを携えて我々読者を驚かせてくれることだろう。


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